僕を止めてください 【小説】
夕方、交通事故のバイクのライダーの遺体の解剖が終わった。午前中に解剖したトラックの運転手は血中のアルコール濃度から酒気帯び運転の可能性が濃厚だったが、頭部の解剖で脳出血が見つかった。体表の損傷部位に生活反応がなく、衝突の前に死んでいた可能性が極めて高い。警察が再度確認すると、ドライブレコーダーにその様子がかすかに映っていたそうである。フロントガラスの内側に運転手が衝突前に気を失う様子が運良く薄っすらと映り込んでいたらしい。急激にコントロールを失ったトラックの左側にバイクが運悪く位置していたため、ブロック塀とトラックの間にバイクもろともライダーが挟まれ、逃げる間もなく圧死した。二人とも即死に近かったはずなので、苦痛は一瞬だったのが不幸中の幸いというところだった。屍体を解剖している時だけは正気でいられた。そのあとの事務仕事が一段落したと同時に、僕は机の上に突っ伏していた。結局、自殺の屍体は一度も運び込まれなかった。その緊張感がプツンと切れた。
もう帰りますよ、という鈴木さんの声がした。声を掛けられるまで意識が飛んでいたようだった。ハッとして起き上がると、緊張の中に再度放り込まれた。これからが真の正念場なのだ。清水センセに電話する前に、一度自宅に帰った。外はもう真っ暗だった。
「もしもし…裕くん?」
ようやく覚悟が決まって電話を掛けると、ワンコールで清水センセが出た。待ち構えていたかのような速さだったが、清水センセの声がいつになく緊張していて、その緊張は僕にも伝染してきそうな張り詰め方をしていた。
「はい、岡本です。仕事、終わりました」
「お疲れ様」
「遅くなってすいません。清水先生の方は大丈夫ですか?」
「こっちは大丈夫。今から迎えに行っていい?」
「よろしくお願いします。すみません」
「じゃ、下に着いたら電話するよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
普段のようにダラダラ話をすることもなくタイトに用件のみでいきなり電話が切られた。いつもの電話と違う素っ気ない会話と、途切れた音のあとに急激な不安が襲ってきた。この実験は全く歓迎されてはいないんじゃないかということに。清水センセの抑揚のない事務的な通話を初めて聞き、そして初めて気がつく。いつも僕は彼のウザいおしゃべりに救われていたんじゃないだろうかということを。だがもう、この後に及んで、その余裕は彼から消え失せたのではないか、と。それは多分、嫉妬で。