花に言葉を、君に思いを
†女郎花†
「これ、落としましたよね…?」

 あの日から、ずっと。

 君だけを見ていた。

ーーーーー…………

「な、何なんですか!? 誰よ貴方!」

 彼女のリスのようにクリクリとした目には、はっきりとした怯えの色が浮かぶ。

「いやあっ、来ないで! 誰か、助けてぇ!!」

 突然現れて対峙する男の手に鈍く光るナイフが握られているのだから、当然の反応だ。ジリジリと後ずさる彼女の背中に立ちはだかるコンクリートの壁が、無情にも逃げ道を塞ぐ。

現在の時刻は午後11時手前、周囲に人家は無く静まり返っている。街灯の明かりは点滅して心許なく、状況は彼女に冷酷だった。

「来月…結婚するんだって? あんな醜男で何の取り柄もない奴と。君には俺がいるのに、さ。なんでアイツを選ぶんだ? …ひどい女だな、君は」

 恐怖に震えながらも彼女の瞳には別の色が浮かびだした。愛する人を侮辱されたことへの、怒り。儚げに見えて意外と勝ち気な彼女は、ただ怯えて泣くような人ではない。

それが男の憎悪に油を注ぐことになると知らずに。もはや正気とは程遠い、焦点の定まらぬ虚ろな目は醜くつり上がる。

「なんで…そんな目で俺を見るんだよ!? こんなにも、君のことを愛してるのに! 俺の心をさんざ弄んでおきながら!! …もういい、お前なんか。他の奴の物になるぐらいなら、はははっ。君は、俺だけのものだって分からせてやる。君が悪いんだ、そうだ。ふふふふ、うああああっ!!!」

 男の右腕が、弧を描いた。



 ーーー熱い。ただそう思った。けれどなぜか痛みは感じなかった。気持ちが異常に高ぶっているせいなのか? それでも全身から力は抜け、ヘナヘナとその場に崩れ落ちた。

 ナイフの柄は、心臓の真下に突き刺さっている。血が白いシャツを赤に染めていく。命と熱がドクドクと流れ出て、冷たい地面に吸い込まれる。

「あ、ああ…。し…しっかり、してください!」

 呆然としていた"彼女"がスカートに土が着くのも厭わずに膝をつく。震えながら傷口を覗き込み、ナイフを引き抜こうとしてやめた。

幸い刺さったままだから、出血量は抑えられている。とはいえ、ほんの少しの時間が伸びるぐらいにすぎない。それにこの状況で、幸いも何もあるのか。

…絶対、助からないというのに。

 それなのに゙僕"は笑いが込み上げて仕方がない。あいつが彼女に襲いかかる奴の一部始終は、しっかり携帯で録画している。すぐに逮捕されて刑務所行きだ。

彼女へのストーカー行為、しかも僕が死ねば殺人罪まで上乗せされる。終身刑は無理でも相当の懲役が下されるだろう。先ほどの威勢はどこへやら、泡を食って走り去る後ろ姿はもう見えない。

 ごめんなさい、ごめんなさい。涙目になってそう繰り返しながら、彼女が鞄からハンカチを取り出して僕の左胸を押さえてくれる。

あっという間に純白が真紅に染められ、僕は泣きたくなった。ああ、それを使わないで。意識が薄れつつある僕には言葉にできなかった。だって、それは…。

『彼が誕生日にくれた、大事なものなんです』

 あの日、君は僕に屈託なく笑った。それなのに、僕の血で宝物を汚してしまった。謝りたいのに、金魚のように口をパクパクさせるだけだ。

「救急車呼びましたから! すぐ来ます、大丈夫ですから!!」

 死なないで。聞き取れなかったが、口の動きで分かった。ごめんなさい、謝るのはこっちだよ。そう言ってくれたのに、僕は応えられそうにない。

優しい人だから自分のせいでと、今日のことを一生気にやむだろう。でもそんな必要は全く無いんだよ。

 最後の力を振り絞って、携帯を彼女に押し付ける。これを警察に。それどころじゃないでしょう!? 咎めるような目付きが新鮮で、どんな表情も可愛らしいと再認識する。

 証拠品として調べるうえで、フォルダ中の数枚の君の写真も知られるだろう。どれも視線はこちらに向かっていない。

ああ、こいつも同じ穴の狢だったのだと。軽蔑して、脅威は無くなったと安心して。こんな奴に罪悪感など感じる必要はないんだよ。

「ごめ…」

 仕事で帰りが遅い君が心配で、毎晩後をつけ回していて。他にも色々と何かにつけて。ずっと君を、見てしまっていました。

「ありが…」

 生まれて初めて、人を好きになりました。

「わらって…」

 生きてください。今夜のことはすぐに忘れて、幸せになってください。

 世界が暗闇と静寂に包まれ、最後に感じたのは右手を包み込む確かな温もりだった。





女郎花

花言葉:親切
    美しさ 美人 佳人
    心づくし はかない恋

(彼は優しく、あまりに綺麗な心の人でした。後に彼女はそう語った)
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