博士と秘書のやさしい恋の始め方
実験室へ行くと残っているのは真鍋さんだけで、女性スタッフたちは全員が定時で退勤していた。

彼女たちは保育園のお迎えや、それぞれの家庭のことで忙しい。

それに、秘書の山下さんはともかく、テクニカルのほうは自分の判断で勝手に残業ができないルールになっており、基本的にそうそう時間外の作業が発生することはないから。

「お疲れ様です。真鍋さんももうあがりですよね」

「はい、ぼちぼち。あれ? 先生はこれから実験ですか?」

白衣を着ている俺を見て、真鍋さんはちょっと驚いて珍しそうな顔をした。

毎日何度も実験室には顔を出すが、そのたびに白衣を着ているわけではない。

そもそもあれは実験をする際の作業着なので。

これはあくまでも自分の場合だが、デスクワークや進捗確認などの相談だけなら着る必要はないという考えだ。

「もうすぐ次のフェーズに入りますし。皆さんにお願いする前に、ちょっと自分で確認しておこうと思いまして」

基本的に実験はすべてテクニカルまかせなのだが、新しい工程に入る前には必ず自分で作業手順を確認するようにしているので。

「田中先生、実はけっこう“テクニシャン”ですよねぇ」

また、この人は……。ニヤニヤ顔の真鍋さんに内心げんなりため息をつく。まあ、慣れているのでどうということもないが。

“テクニシャン”というのはテクニカルスタッフの別称で、理系では「テクニシャン募集」などと実験を専門とする技術者の求人を見かけることもある。

真鍋さんはそのへんの意味といわゆる下世話な意味とを巧くかけているつもりらしいが。

三角さんの話によると、合コンの自己紹介で「俺、テクニシャンなんです」とわざわざ言って、いちいちドン引きされているとか……。

「俺のテクニックなんて真鍋さんの足元にも及びませんよ」

「またまた~、先生はうまいなぁ」

いや、本当に真鍋さんのほうが上手いから。

実験の技術にもやはり上手い下手があり、センスのある人とない人がいる。

おおよその場合は真面目に正確に進めていればおかしなことにはならないはずなのだが、下手な人は本当に下手だし。

逆に真鍋さんのようにセンスのいい技術者だと、仕事が早いうえに正確で安心して作業を任せることができる。
< 49 / 226 >

この作品をシェア

pagetop