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彼の上司からの忠告

師長から来るように指示された場所は、医局のフロアにある応接室だった。

病棟にも面談室があるため、そこに呼び出される理由がわからなかったが、美桜は、夜勤担当に仕事を引き継ぎ、そこへ向かった。

普段立ち入ることがないフロアに緊張しつつも美桜は、目的地を目指した。時折、勤務を終え、白衣から私服へと装いを変えた医師たちとすれ違ったが、彼らの中に大本の姿はなかった。

応接室のドアをノックすると扉が開き、師長の坂本が出迎えてくれた。

師長に促され部屋に入ると、大本の上司にあたる外科部長の八木がソファーに腰をかけ、コーヒーを飲んでいた。

勤務シフトの話だろうと思っていた美桜は、八木の登場と室内の空気の重さに固まってしまった。

なぜここに外科部長がいるのか検討がつかず、師長の顔を見た。
師長は、美桜と視線を合わせたが、何も言ってはくれなかった。師長もこの雰囲気に緊張しているように見えた。
師長は、八木の方を向き、美桜を紹介した。

「八木先生、この子が高柳《たかやなぎ》です」
「そうか。呼び出して、すまなかったね。どうぞ座ってください」

八木は、のそりとソファーから立ち上がり、 美桜を向かいのソファーに座るよう促した。

外科部長の八木は、ほとんどオペを担当することはなく、入院患者を持つことも少ない。
そのため病棟勤務の美桜とは接点がなく、美桜は極度の緊張で心が痛くなった。

緊張で固まった錘《なまり》のような身体をどうにか動かし、八木の対面に腰掛けた。
師長の坂本は、美桜が座ったのを確認すると、となりに腰をおろした。

「今日来てもらったのはね、まぁ、その、・・・大本君のことでね」

八木は、この話をすることを納得していないような口調で、話を切り出した。

向いに座る美桜は、大本の名が出てきたことに驚き、手が震えた。その震えが止まるように、皮膚に爪が食い込むほどの力で手を握った。

何か言わなければと、声を絞り出そうとしたが、口内の水分は無くカラカラで、美桜は言葉を絞り出すことさえ出来なかった。

この場の空気に飲まれてしまっている美桜に気を使うように、八木はなるべく丁寧な言葉を選びながら話を続けた。

「先月ね、大本君にお見合いをすすめたんだよ。30過ぎて独り身はどうかと思ってね。けれど付き合っている人がいると、最後まで話も聞かずに断られてね」

八木は、その時の光景を思い出し、微笑んだ。

「ならば、その方を連れて、食事に行こうかと誘ったんだが、応じてくれなくてね。どんな人かと聞いても、口が固くてねぇ。彼から聞くことは、その時点で諦めたんだよ。それで、医師事務の塩谷《しおや》さんに知っているかと聞いたら、まさかとは思ったが、自分ですと打ち明けられてね」

美桜は、八木の話す内容の意味が理解できず、八木の目を見ると、八木はまっすぐに美桜を見ており、二人の視線が絡み合った。


「あの、八木先生。そのことに高柳が、関係あるんですか」

八木は坂本の問いに頷き、話を続けた。

「あぁ。それでね。まぁ僕としては、他人の色恋沙汰に口を挟むことはしたくないんだが、塩谷さんに、どうしてもと頼まれてしまってね」

八木は美桜から、視線をそらし、手元にあるコーヒーカップに目をやった。

「塩谷さんから、大本君につきまとう病棟看護師がいて困っていると相談を受けてね」

「それが、高柳だと・・・?」
坂本は、隣に座る美桜をちらりと目にし、信じられないという顔つきで、八木に問いかけた。
八木は申し訳なさそうな顔をしながら、首を縦に振った。

美桜は、目の前の八木が何を言っているのか分からなくなっていた。
何か話をしているが、意味を持った言葉として耳に入ってこない。
それでも、懸命に話を理解しようとするが、脳が働かず、ふたりが、何を話しているか分からなかった。
まるで、音のない世界に来てしまったかのような感覚だった。

返事も意見も言わない、いや言えない美桜を置き去りにし、ふたりは会話を続けていた。

美桜は、自分がここにいる意味さえも、わからなくなり、ただ時が過ぎ去るのを待った。


「というわけでね、高柳さん。うちの病院の外科のためにも、大本君にちょっかいをかけるのは辞めてもらいたいんだ。塩谷さんが絡んでいなければ、こんなことは言いたくないんだが、申し訳ないね」

八木は立ち上がり、崩れた白衣を正すとドアの方を向いた。

「ふたりの貴重な時間をありがとう。今回の件は内密にお願いしますね。では、先に失礼するよ」


そう言って、扉の向こうに消えていった。
坂本は立ち上がり、八木に向かって深く礼をしていたが、美桜はソファーから立ち上がることさえもできなかった。

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