ポケットの中のパノラマ
1

white

目が覚めたら、涙を流していた。

どうしてだかひどく、悲しくて、哀しくて、かなしかった。

「ハチ、ねぇハチ」

呼ぶ声は、自分でも驚くくらい弱々しい。

「なぁに」

柔らかい、ハチの声。

「ハチ、こっち来て」

――でも声だけじゃ不安で。

「ハルは甘えんぼさんだねぇ」

ハチはくすくす笑った。

そしてベッドにちょこんと腰掛ける。

スプリングの軋む音がして、腰の左側が少し沈んだ。

「怖い夢でも見た?」

ハチは人差し指でまだ目尻に残っていた涙をそっと拭った。

「ううん」

「どうして泣いてるの?」

「かなしくて仕方なくて」

「そう」

ハチは目を細めて微笑んだ。

出会ったときと変わらないその仕草がすごくすきで、それなのに無性に切なくなった。

腕を伸ばしてハチの白いシャツの裾を引っ張ると、ハチは上から覆いかぶさるように優しく抱きしめてくれた。

「ハルは優しいんだね」

それならハチの方が、そう言いかけて声が出なかった。

また涙がじんわりとわいてきた。

「ハチ、すき」

「うん」

「すごくすき」

「ありがとう」

「いなくならないで」

「えっ」

そう、きっと涙の理由はこれだ。

ハチは驚いたような声を上げた。

肩も、強張ったようにピクッと動いた。

触れ合っていた身体がゆるゆると離れていく。

「いなくならないよ、どうして?」

「わからないけど、そんな気がしたから」

水が染みていくようにじわりじわりと広がったかなしみは、ついに今日、涙になって目から溢れた。

すきで、うれしくて、でもその分だけ不安も大きくなっていって、どうしたらいいのかわからない。

未来も、人の気持ちも、そして命も、目に見えなくて予測もつかなくて、だから――怖い。

「ハルと離れたいと思ってるとでも?」

ハチは自分を指差して、ちょっと怒ったように言った。

「違うけど…」

「けど?」

『ハチを信じていないわけじゃないの』

そう言いたくて、でも言えなかった。

本当にそう思ってるのに、この台詞は口にすればきっと、薄っぺらい形だけのものになってしまう。

この気持ちを、そのままそっくり伝えられる術が――言葉でも何でもいいから――あればいいのに。

もどかしくて顔をしかめると、今度はハチの方が泣きそうな顔をした。

「ごめんね、安心させてあげられなくて」

胸がきゅう、と狭くなった。

そんな顔をさせてしまっている自分が、悔しくて情けなくて、とても苦しい。

「違うの、ハチは何も悪くない」

「でもね、ハルが思ってるよりもずっと、ハルのことすきだよ」

すると次にははっきりとした口調でハチはそう言って、まっすぐこっちを見た。

真剣な眼差しにドキリとする。

「ハル」

自分の名前をなぞる、愛しい唇。

かと思うと上半身を無理やり起こされて、抱きしめられた。

今度は、力強く。

ハチの体温が、触れ合ったところから流れてくる。

「ハチ、ハチ」

どうすれば伝わるだろう。

うれしいのもかなしいのも、ハチのことがだいすきだからだってこと。

それがすべてだってこと。

「あのね、ハチ」

「ハル、聞いて」

意を決して口を開いたら、ハチとまるきり同時だった。

少し身体を離して、お互いに顔を見合わせて、そしてくすくすと笑った。

たったそれだけのことで、不思議にもざわざわした気持ちが収まっていく。

「先にどうぞ」

「ううん、ハチから言って」

そう言ってハチの顔に触れようとすると、その左手は温かいハチの両手で包み込まれた。

そして少し間があって、ハチは丁寧に言葉を紡ぎ出した。

「ハルが大切なの。ハルじゃなきゃダメなの」

「うん」

「もう気持ちなんて通り越して、細胞がハルを求めてるの」

「…うん」

「もうこのまま動かないで、ずっとこうしてたい」

そしてハチは、指に、次に手の甲に、上目遣いでこっちを見た後で今度は首に、頬に、最後に唇に、キスをした。

あぁ、なんて幸福なんだろう。

未来の不安を嘆くより、今が幸せなら、それでいい。

それで、いい。

「で、ハルはなんて言いかけたの?」

ゆっくりと唇が離れて、ハチが問いかける。

「…もうハチがいないと、生きていけないって思ったの」

「うわぁ、何それ、骨抜き」

そしてまた二人で笑って、もう一度キスをした。







ハルは繊細で、傷つきやすくて、臆病で、脆い。

「例えば…例えば先に死ぬようなことがあっても、心はずっとそばにいるよ」

不安がることをやめられないハルにそう言うと、静かに頷いて微笑んだ。

「おやすみ、ハチ」

あぁ、今日は幾分か穏やかだ。

「おやすみ、ハル」

愛しくて仕方ない。









『そして、次の日目覚めるとハルはつめたくなっていた』





fin.

2014.09.01

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「けだるい」がテーマでした。

不安に思わないと生きていけない人が、安心してしまったお話。
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