世界で一番好きな人
アンジュールに戻ると、掛川さんは親しげに従業員に声を掛けた。
すると、嬉しそうな顔でオーナーが現れて、掛川さんを店の中央に案内する。

そこには、漆黒に輝くアップライトピアノが一台、ひっそりと置いてあった。

掛川さんは、その椅子に座ると、高さを調節する。
そして、優雅な身のこなしで椅子に座って、音程を確認するように鍵盤を鳴らした。



「調律してある。」


「ええ。いつの日か、こうして掛川さんが弾いてくれる時を、待っていました。」


「そう。それはありがたい。」


「また弾いていただけるのですか?」


「いや。今日だけだよ。」



お店に流れている音楽は、いつの間にか止まっていた。

代わりに、掛川さんが長い指を、鍵盤にそっと置く。



「瞳子さんへ。」



そう言って彼が弾き始めた曲は、私も聴き覚えがあった。
曲名は思い出せないけれど、とても切ない曲。
途中で何度も盛り上がっては、収束していくような。

それは、まるで恋の終わりのような曲―――


掛川さんの紡ぐ音色は、切なくて、時に男性的で。
心が揺さぶられるようだった。
そこには、単なる表現力を超えた、掛川さんの人生そのものが現れているような気がした。


感動に、涙が溢れる。
そして、失ったばかりの恋が、しっとりと心に染み渡ってゆく。



その曲が終わると、店にいた数人の客からパラパラと拍手が沸き起こった。
もちろん私も、思い切り拍手をする。

掛川さんは、嬉しそうに目を細めて。
そして、深々とおじぎをした。



「掛川さん、他には?」


「これで終わりだ。すまないね。」



名残惜しそうなオーナーに謝って、掛川さんは私の元に戻ってきた。
スターのような彼と一緒にいられることが、素直に嬉しい。

掛川さんのことを何も知らない私。
でも、それでもいい。
掛川さんに、こんなに素敵な才能があることを知れたなら、それでいい。



「さっきの曲、何ていう曲だっけ?」


「ショパンの『別れの曲』。」


「あ、だから私に?」


「いや、……あの曲はとても美しいから。……実を言うと、私が初めて君の写真を見たとき、何故か頭の中で『別れの曲』が流れ始めたんだ。」


「出会いなのに別れの曲?」


「はは。確かに言われてみるとおかしいね。……でも、君とあの美しい旋律は、ぴったりなんだ。」



そう言われると、不思議と。
私もあの曲に、自分自身が馴染んでいくような気がした。

きっと、いつまでも私は、この夜のことを忘れないだろう。
ショパンの『別れの曲』を、私のために弾いてくれた掛川さんを―――



「どうしてあんなに、ピアノが上手なの?」


「上手?それはどうも。」



掛川さんはただ笑うだけで、その理由を明かそうとはしなかった。

もったいないと思う。
こんなに素敵な音色を奏でる彼が、ピアノを弾かずにいるなんて。



「すっかり遅くなってしまったね。駅まで送るよ。」


「ありがとう。」



掛川さんと、アンジュールを出る。
もうすっかり、馴染みの店のような気がした。
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