世界で一番好きな人
その日の夜は、結局特別なことなんて何も起こらなかった。
ただ、掛川さんと一緒にテレビを見たり、お茶を飲んだりした。

それだけだった。


掛川さんが勧めてくれて、先にシャワーを浴びた。
ルームウェアに着替えて、髪を拭きながらリビングに行く。
すると掛川さんは、ふわっと笑って私にドライヤーを差し出した。


「風邪を引かないように、ちゃんと乾かしてくださいね。」


「ありがとうございます。」



私がドライヤーを受け取ると、掛川さんは立ち上がった。



「じゃあ、私も浴びてきます。」


「いってらっしゃい。」


「ふふ、そんなに遠くに行くわけじゃないですよ。」



掛川さんは面白そうに言って、バスタオルを持つとお風呂場に歩いて行った。
私は、ドライヤーで髪を乾かし始める。

静寂の中に、私のドライヤーの音だけが響いていた。


ふと、戸棚の上の写真が目に入る。

掛川さんと、幼い薫ちゃん、そして―――


綺麗な人だった。
その人は、透き通るような眼差しで、静かに微笑んでいた。
掛川さんの隣にいるには、誰よりもふさわしい人だと思った。


私の目からは、知らずに涙がこぼれていた。
病気で亡くなった、と薫ちゃんは言っていた。
この人を失って、ピアノも弾けなくなるくらい、掛川さんは苦しんだのだ。
暗い闇の中に、ひとり、立たされたんだ。

やっぱり、勝てないや。

勝ち負けじゃないのは分かっている。
今、目の前にいる私のことを、掛川さんは大切にしてくれているということも。
将来の約束なんてなくても、二人で心をときめかせる恋を、していることの素晴らしさも。

でも、この人のように私は、掛川さんの隣で胸を張って微笑むことは、できない―――



「どうしたの、瞳子さん。」



いつの間にか、出てきた掛川さんが横に立っていた。
お風呂上がりの掛川さんから立ち上る、私と同じシャンプーの香り。
そんなものも、今は幸せには感じられなかった。

私の顔を見て、それから私の視線を辿って。
掛川さんは、勘付いたようだ。

私はみじめだった。
悲しいのは掛川さんなのに、こんなふうに泣くなんて。
まるで、欲しいものが手に入らなくて駄々をこねる、子どものようだと思った。



「ごめんなさいね、瞳子さん。」



掛川さんは、写真たてを裏返すと、私をそっと抱きしめた。



「私の過去が、どうしたってあなたを傷つける。」


「そんなっ、ことっ、……そんなこと、言わないでっ。か、掛川さんは、悪くない!」



嗚咽しながら、そう言うのがやっとだった。
掛川さんは、何も悪くない。
私が勝手に掛川さんを好きになった。
勝手に、彼の過去に土足で踏み込んだ。
痛いのはいつも、掛川さんだったのに―――



「瞳子さんだって、何も悪くない。」



掛川さんは、はっきりと言った。



「あなたがたまたま好きになったのが、こんな私だっただけです。ねえ、瞳子さん。」



掛川さんは、私を真っ直ぐに見つめて言った。



「私は過去を生きている。でも君は、未来を生きているんだ。……未来を生きている人は、過去に囚われてはいけない。」



その言葉が、胸にぐさっと突き刺さった。
私と掛川さんの生きる世界の間に、真っ直ぐな線が引かれてしまった気がした。



「私は、瞳子さんのことが好きです。でも……、私は恋をしているにすぎない。あなたは、私の恋人です。」


「それは、……結婚は、できないと、そういうことですか?」


「もちろんです。……私にとってあなたは、恋をする対象であって、愛を感じる相手ではないのです。あなたも、だから泣いていたのでしょう?」



はっとした。
あの写真を見て、なぜ涙がこぼれたのか分かったんだ。

掛川さんは、一生、亡くなった奥さんのことを愛し続けるだろう。
その愛が、私に向けられることはきっと、ないだろう―――

そう思ったから。



「分かっています。ずるいのは私です。素直で優しいあなたに、残酷なことを言っているということも。……だけど瞳子さん、今現在の私だけではなく、過去の私まで欲しがるようなら、あなたにとって私は重すぎる。……あなたは、何も知らないままでよかったのです。」



掛川さんの言葉の、ひとつひとつが痛い。
それは、彼の言葉がよくわかるから。

ぽろぽろと涙をこぼす私を抱きしめて、掛川さんは言った。



「そんなに泣いて……。私のそばにいて苦しいのなら、そばにいなくたっていいんですよ。私はあなたがいなくなれば、しばらくの間はあなたを思って悲しむでしょう。でも、しばらくすればまた、元のように薫と二人で、暗やみに囚われながら生きていく。それでもかまいません。」


「私は……、」



小さな声で言った。



「それでも、あなたのそばにいたい。」



震える私を、掛川さんはベッドに誘った。
一緒に布団に入ると、掛川さんは私を抱きしめて、囁いた。



「傷付けるようなことを言って、ごめんね。」



掛川さんの熱で、私の冷え切った体が温まってゆく。



「愛だとか、恋だとか、難しいことを言っておきながら、私は……、妻のことを忘れてしまうのが、怖い……。それだけなんだ。」



掛川さんの声が震えていた。
私も、掛川さんを抱きしめ返して、震える背中にそっと手を置いた。

ごめんね、掛川さん。

あなたの過去に嫉妬しそうになった、私が悪い。
あなたの、そのままにしておきたい過去や悲しみに、手を伸ばした私が悪い。

そばにいたいと願うのは、私の勝手で。
愛を求めてはいけないんだと、分かっていたのに。


楽しい日は、私のせいで一転して悲しい日になった。

私と掛川さんは、お互いの温もりを確かめ合うようにして寄り添いながら、そっと眠りに落ちた―――
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