ゆきあそび
「ゆきちゃん、昨日の宿題終わったの」
登校して真っ先にこむぎが聞いてきた。
まだ、ランドセルも机の上に置いてない。
「終わったよ何で」
私がそう返事を返すとこむぎは小バカにした顔をして、「ふ~ん」と言った。
「こむぎちゃんは終わったの」
癪に障って私は聞き返した。
「直ぐに終わったの?全部できたの?」
算数の宿題で、習ったばかりのわり算ができたのが自分だけじゃないと気にくわないみたいだった。いや、私ができる事を認めたくないようだった。字が下手で、馬鹿だと思われたのかもしれないが、ある程度の解釈は人並みだと感じていたが、どうもこむぎはそうは、認めないようだった。その時はただの怒りで終わったが、大人になった自分が振り返ると、こむぎが大好きだった友達を私にとられたと感じて、
私が気にくわないのだとわかった。
友人など、誰の所有物でもないのだから、誰といたって構わないじゃないか。
子供ながらに私は感じていた。
「赤いペンかしてたよね、返してよ」
と、私が言ってケンカが始まった。
私はこむぎに赤ペンをかした。
「えっ返したよ?机の中に入れたよ」
こむぎはそう言ったが、どう探しても赤ペンは
机の中には無かった。こむぎは平気で嘘をつく
ので、パクられたと思って諦めたが、
その日のお昼休みに教室に戻ると、ひょっこり出てきた。
こむぎはそんなやつだった。
可愛げがあると今なら思えるのだから、
社会がいかに醜いか私は突き付けられてきたのだと悟った。
ふしぎと大人の頃に出会った仲間は、幼少期に出会った仲間より、大切にできないもので、
平気で相手に嘘をついても、悪びれるどころか、死んだとしても、露程もどうだってよくなってしまう。迷惑かけるなよ、関係ないんだからと思っていた。他の人だってそうなんだろう。平気で嘘をつかれ、仕事をなくしても、
そいつが無能なだけだであり、会社のゴミとして片付ける。
幼なじみはそうはいかない。
あそんだ時間が長いからだ。
あそびを共有した人、楽しさを共有した人は
自分の記憶に刻まれた喜びの自分自身なのだ。
友人を小さい頃にもつ事は大切な事柄である。
人間の生きる喜びの一部だからだ。
本当に楽しさを共有できた人がいれば、
何歳であっても、その人は自分自身の喜びの一部になり、人生の喜びになるだろう。
私には小さい頃のあそびが本当の喜びだった。

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