グレープフルーツを食べなさい
 呼吸を整えると、岩井田さんは黒いセルフレームの眼鏡のブリッジを持ち上げた。……ああこれは、ちょっとやっかいな頼み事をする時の岩井田さんの癖だ。

「仕事ですか?」

 私の問いに岩井田さんは周囲をさっと窺うと、体をかがめて私の耳元に顔を寄せた。

「その……三谷さん、この後時間ありませんか」

「それは……就業時間内ですか?それとも……」

「就業時間外、です」

 私はデスクの上のカレンダーにさっと目を走らせた。今日は金曜日。ひょっとしたら上村が部屋に来るかもしれない。でも、私たちに確かな約束があるわけじゃない。

「わかりました。少し遅い時間なら……20時以降なら大丈夫です」

「良かった。また後で連絡入れますね」

 一体何なんだろう、仕事の相談事だろうか。今のところ岩井田さんの抱える仕事はスムーズに進んでいるはずだし、これといって思い当たることもない。

再び「行って来ます」と手を振る岩井田さんを見送って、私は視線をパソコンの画面に戻した。


< 206 / 368 >

この作品をシェア

pagetop