南柯と胡蝶の夢物語

2,佳人薄命


2,佳人薄命


白い枕に痛いほど顔を擦り付けて彼女は現実から逃げた。
もうずっとやってきたことなのだが、最近はなんだかやりにくい。
原因は知っていたが、それでもやめようとはしなかった。
ぐりぐり、ぐりぐりとひたすらに白い白い枕に頭を押し付けるのだ。
白いのは何も枕だけではない。
ベッドのシーツも、掛け布団も、着ている服も、カーテンも壁も床もスリッパも、サイドテーブルと椅子も何もかもが不気味なくらいに真っ白だ。
ストレスで脱色した白く長いストレートの髪の毛はまるで周りの白さに擬態したかのようだった。

「私が死んだら」

掠れた声で今まで顔を押し付けていた白い枕に声を掛ける。

「私が死んだら、世界の涙は増えるのかしら、減るのかしら?」

もちろん返事などない。
それでよかった。

「紗良里は誰?紗良里はなぜ私でないといけないの?ああ、それが分かればきっと腕も脚も生えてきちゃうと思うの」

白い羽毛布団の端をぎゅっと掴んで、その布に染み込ませるように独り言をぽつりぽつりと吐き出した。
誰も聞いている者はいない。
それでよかった。
誰かがそれを聞いていて、その誰かがもし『オトナ』ならばきっと背中に走る痛みと共にあの言葉が冷たく掛かるのだから。

「違うのに。私は私の言葉を言っているだけなのに」

いつもいつも、こころの声を口に出すと同じように言われた。
その行動に名前が付けられた。

「違うのよ……こんなの『症状』なんかじゃない。もともと、紗良里はこうなのよ」

――そんなの、わからないじゃない。

と、自分と同じ声が頭に響いた。

――わからないわ。あなた、生まれた時から紗良里ですもの。

「そうだけれど……」

その脳に響く声に、紗良里は弱々しく返事してみせる。
これも幼い頃から聞こえているのだが、お医者さまは二重人格と診断した。

――ずっとあなたには紗良里がいるのに、どうしてもとのあなたがこうだと言えるの?

「そうでありたいの。ここにいるのは私だって、そう思いたいのよ」

自問自答と言えばそれまでかもしれないが、その頭の声は自分と全く別の意思であるようにも思えた。

――紗良里の声をもっと聞いてくれると嬉しいのだけれど。

「紗良里はあなたじゃない、私よ」

――そうね。でも私とあなたの命はぴったりとくっついているから。
――いいわ。あなたが自分を紗良里だと言うのなら、私は

その頭の中の声が何かを言おうとした時、小さくノック音が聞こえた。
同時にドアの向こうで「穂月だけど」と声がする。
それで、その声は消え去ってしまう。
いつもそうだった。
その声は紗良里が一人の時にしか聞こえないのだ。

大きな声が出せない紗良里は布団に潜り込んだまま手だけ伸ばし、ノックの返事に枕元に置いた鐘をちりん、と鳴らした。
それを聞いてから、穂月はゆっくりドアを開ける。

「……紗良里、具合はどう?」
「最高よ」

布団がもぞもぞと動いて返事をするのを見て、穂月はそっと視線を外した。
そもそも紗良里はただ単に具合が悪くてこの気味が悪い程真っ白な空間――病院にいるわけではないのだ。
紗良里のいる病室は、他とは違う変わった内装をしている。
重いドアは二重になっていて、外からしか開かないようにもなっていた。
病室は四階だというのに窓には白い格子が嵌められ、羽毛布団にしま模様の影を落としていた。
まるで、牢獄のように。

そんな所に彼女が閉じ込められてしまった一因は、自分のせいだと常々穂月は思っている。
それなのに具合はどう、などというご挨拶が口から出てしまった自分に、心の中で舌打ちをしたのだった。


< 8 / 67 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop