たかしと父さん
その夜、私は起きていた。何か高志から連絡があるのではないかと思っていた。そう思いながらも怖かった。父は「幸せになるんだ」と言ってくれたけれど、私にそんな資格があるのだろうかと自問自答していた。父に新田家に連れて行かれる前に怒っていた私は、本当に自己中心的な人間だった。高志のことを大切に思っているとそう自分で思っていただけで、私が大切にしていたのは私自身の欲望だけだった。高志のことを自分の欲のためだけに2年間だまし続けていた。私と言う人間は汚くて、心の狭いバカな女だと、やっと自分でも気付くときがやってきたのだ。夜の12時を過ぎる頃、高志からの連絡を待つのはもうやめようと思った。一晩、じっくり考えて、明日学校でどういう風に謝ればいいかを考えようと思った。許してもらえなくてもいいから、別れてもいいから、大好きな高志に対して誠実に生きようと決心した。私は生まれ変わるんだ。結果的に、一人で死んでいく事になってもいい。自分が好きになった相手に誠実に生きるだけで十分だ。それで、一人になるなら、それまでの人間だったということだし、実際に自分はそういう人間だ。そう、結論が出たところで、ゆっくり、高志とのこれまでの日々を振り返り始めた。平日は毎日、学校から家に送ってくれただけでも、二人を取り巻く四季はもう2周もした。学校から家へと続く道は色々な姿を見せてくれた。高志が買ってくれたものや二人で食べたものを全部思い出そうとギュッと目を閉じた。涙はもう出てこなかったけれど、何でそんな大切なことに気づかなかったのだろうと悔やんだ。週末や休みの日に自転車や電車でいろんなところに連れて行ってくれた。一日も忘れたくない。多分、私はあの時、自分が子供だったということに気付いて、やっと少し大人になったのではないかと思う。夜1時過ぎに携帯が鳴った。結婚前に高志がそんな時間に電話をしてきたのは後にも先にもこれ一度きりだ。

「会いたい。今アパートの前にいる。」

高志の言葉に私の中で膨らんでいた色々なモノが溶けて行った。

「うん。」

溶け切るのを待ってから返事をした。

「すぐ用意するね?」
「うん。」

私は急いで支度をした。今夜が最後かもしれない。一番綺麗な私でいたい。部屋を出ると父がまだ起きていた。

「沙良、カイロ持っていきなさい。あと、鍵持って出なさい。」
「・・・え、こんな時間だよ?」

本来ならこんな時間に出掛けるのを止められないだけラッキーなのだが、思わず訊いてしまった。

「僕は・・・いや、この話はやめよう。」
「してよ。」

父は何かを思い出して微笑んでいるように見えた。

「僕はお前の母さんのことだって、やりたいことをやりたいようにさせたんだ。」
「え、それって・・・」
「寒い中、たかしくんが待ってるぞ。」
「あ、そうだった!」

アパートを飛び出すと、マフラーを巻いた高志が白い息を吐いていた。

「ごめんね、寒い中呼び出して。」
「ううん、嬉しい。」

正直な気持ちだ。

「寒いね。」
「うん。・・・あ、カイロあるよ。」

カイロを渡すのに手間取っていると、後ろから声がした。

「はい、ごめんなさいね。」
「お父さん!」
「ワカサギ釣りに行ってくる。朝まで帰らん。・・・でも、何かあったら電話ください。」
「え、ちょっと!」

お父さんは振り返らずに車に乗っていってしまった。

「・・・行っちゃった。・・・家、入ってよ。寒いし。」

高志が震えている。

「い・・・いいの?」
「いいんだと思うよ。」

二人でアパートに入り、鍵を開けて玄関に入る。狭い玄関に二人で並んで立っていると、閉まりかけていたスチールの扉が小さく音を立てて閉まった。

「上がってよ。」
「う、うん。」

家の暖房はつきっぱなしで、ココアが淹れてあった。

「こっち暖かいよ。」

高志を石油ファンヒーターの前に来るように促すと、小刻みに震えながら高志がやってきた。

「・・・やばい、まだこんなに寒いなんて思わなかった。」
「もう2月なのにね。」

高志が私の家にいる。久しぶりに高志の鼻水を見た。この時の顔は、今でも鮮明に覚えている。

「結婚しよう。」
「へ?」
「結婚しよう。」

高志は私のことをなんだかちょっと眉をひそめて見ていた。何でその表情で言うのだろう。

「結婚しよう。3回言ったから、お前みたいな気の弱い女はもう断れない。」
「はい。」

高志は私から少し冷めたココアを受け取ると一気に飲み干した。

「沙良のお父さんに電話かけてよ。」
「も・・・もう!?」

高志はまだ芝居がかった険しい目つきをしている。

「お父さん、電話出たよ。」

無言で手を伸ばす高志に、私の携帯を渡す。

「すいません、新田です。僕もワカサギ釣り連れて行ってください。・・・はい。・・・待ってます。・・・失礼します。」

こうして、高志と父さんは深夜のワカサギ釣りに出かけて行った。これについてはあまりにも不可解だったので、だいぶ後になって高志に真相を聞いてみたら、父さんは近所を適当にドライブして連絡を待っていたらしい。そして、高志と合流した後、二人で牛丼屋へ行ったそうだ。どうも、この時に父は高志に仕事を紹介する準備があると提案したようで、高志はそれに即応じたみたいだった。私自身はこの時、アパートに二人っきりだったこともあって実はいろいろなことを考えていたのだけれど、今度は一人で取り残されてなんだか笑ったり、泣いたりしながらいつの間にか眠ってしまったと思う。翌朝、父はワカサギではなく鶏の唐揚げを買って帰ってきた。
 それからしばらくの間、高志は色々なことが上の空だった。いつもなんだか遠くの方を見ていて、声をかけた時だけ一瞬こっち側に帰ってくる。でも、なんだか遠くを見ている眼差しが格好良く感じて、声をかけずにずっと眺めていたりもした。その眼差しの正体が何なのか理解したのは、高志が自動車の運転免許を取る勉強を始めた時だった。勉強する高志の顔は何度も見たけど、こんなに真剣な高志の顔は初めてだった。高3になるころ、クラスで進路のことが嫌でも話題に上がるようになった。

「新田、お前どこいくの?ってか免許の勉強早くね?」

同じクラスの桜井君が高志を捕まえた。

「大学行かないよ。就職する。」

高志は自動車学校のテキストから顔を上げずに、その顔色を全く変えないで答えた。桜井君は何か茶化そうとしたようだけど、高志の気迫に圧されてやめたようだ。クラス中の視線が私に向いた。

「お前ら・・・マジか?」

静まり返る休み時間の教室に、高志の立てるノートとシャーペンの音だけがカリカリと聞こえる。遠くの教室で誰かの喋る声も聞こえた気はしたけれど、とにかく教室は静かだった。

「篠宮・・・進路どうするの?」

私はクラス全員の真剣なまなざしを一身に受けて、もう不恰好に笑うしかなかった。

「サラ・・・決めてないだけ?」
「結婚するんだ、僕たち。」

高志がやっぱり顔を上げずにそう言った。クラス中から冷やかす声が聞こえるかと思ったが、聞こえなかった。その時の高志のオーラはそれほど凄かった。本当ならそこで私が何か感動的なリアクションをするタイミングだったのかもしれないけれど、私ですら高志に気圧されて何も言えなかった。多分、この日を境にウチのクラスの生徒は進路について真剣に向き合うようになったと思う。そして、私、篠宮沙良だけが第一進路希望に「家事手伝い」と書いていたことを白状せざるを得ない。担任は「はい」と言って受け取っただけだった。養護教諭の高木が、そのやり取りを遠目に見ていて「往生際が悪いなあ、もう『
結婚』って書いちゃえよ」と茶化してきた。何か反撃しようと思ったが、高志のあの顔を思い出すと何も言えなくなってしまう。こうやって男性の後ろで一歩引いた女性はできていくのかなとしんみりと考えた。
 高志の険しいオーラは自動車の運転免許取得と同時に和らいだ。自信がついたのかなんだか一回り大きい人間になったかのように感じる。この頃、実は高志本人が全く知らないところで高志のモテ期が来ていた。同じ学年の女子の中に「なんでもっと早くに自分は新田くんみたいな男子を捕まえられなかったのか」と声に出すことをはばからないのがちらほら出てきた。

「いやー、カッコいいわ。」
「堪忍してください・・・」

保健室の高木先生までがその声に賛同していた。そのカッコ良さに一番シビれていたのは当時の私で、当然、高木はそれを知っていたわけで、それを茶化す意味も込めてそう言っているわけだが、それもまた後述しよう。ともかく、当時の私としては、茶化されている自覚しかない。そんな風に茶化されているのに私の中のオンナの部分は高志の一挙手一投足にクラックラ来ていて、自分の彼氏だと分かっていながらも、シャーペンを持つ手を見たり、襟元をみたり、ほっぺたを見たりして、完全にやられていた。その結果が「堪忍してください」だ。高校入学当初、私のことを「ナゾの保健室の美少女」だと噂している男子達がいるとどこからか聞かされて、「まあ、この日のために自分を磨いてきたんだからね」と天狗になっていた経緯があるわけだが、今やそのメッキはすっかり剥げて「なんで新田くんは篠宮さんの事選んだんだろうね?」と言われているらしい。しかも、私はそんな「新田くん」の事を2年近く騙していたわけで、しかも、自分で言い出せずに「お父さん」に全部、お膳立てしてもらったわけで、ただでさえメッキが剥げた女のそんなサイテーな事情をみんなは知らないわけで。

「先生・・・穴があったら入りたいです・・・」
「無いよ!穴ぁ!!」

高木先生は軽やかに笑い飛ばした。逃げたかったけど肩に手を回されて捕まってしまう。

「お前、ちょっと前まで『良い人なんだけど平凡で退屈で』とか言ってなかったっけ?」

そうだ、それもあった。

「やっと、奴の良さに気付いたか?」
「・・・はい」
「『誘っても、気づいてくれない、意気地なしなんだと思う』とか言ってたよな?」

しまった、それもあった。

「・・・はい」
「おかしいなぁ・・・何でだったのかなぁ・・・?」
「・・・私に魅力が足りなかったんです。」
「どっちの魅力だ?人間としてのか?オンナとしてのか?」

いっそ、今死んでしまいたい。

「・・・両方です・・・」
「そうかぁ!両方かぁ!!あっはっは!!」

高木は満足したのか私の肩を叩いて去って行った。
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