光のもとでⅡ

Side 慧 03話

 翠葉たちをじーちゃんのもとへ連れて行くと、じーちゃんは城井さんに客を紹介するとかなんとかで、俺と弓弦は翠葉を会場へ案内する役を仰せつかった。
 会場のあちこちに配置されたテーブルには、うまそうな料理がところ狭しと並ぶ。なのに翠葉は、オレンジジュース以外のものには手を伸ばさなかった。
「何、好き嫌い結構あんの?」
「ううん、そういうわけではないのだけど……演奏を聴きながら食べるっていう器用なことができないだけ。慧くん、私、見るのと聴くので忙しいから話しかけないでね」
 目を見てシャットアウト宣言をすると、翠葉はすぐに演奏へと意識を戻した。
 俺は呆気に取られ、弓弦はこちらに背を向け笑っている。なんていうか、必死に堪えようとしてるみたいだけど、肩が震えている時点でアウトだろ、をぃ……。
 ま、音楽家の演奏が生で、しかも金も払わず聴けるのだから、こうなってもおかしくはないわけだけど、周りは歓談しながら聴いている人間が大多数なわけで……。
 ちっくしょー……もっと話したいのに。
 でも裏を返せば、俺が弾いているときもこんなふうに全神経を傾けて聴いてくれるのだろう。
 そう思えばそれはそれで嬉しい気もするし……。
 仕方ない、俺も一緒になって演奏を聴きますかね。
 奏者の割とすぐ近く、壁際に置かれた長椅子に座った俺たちは、お行儀よくじっと演奏を聴いていた。
 そうして二時間が経ったころ、弓弦の番が回ってきて、翠葉の目がパッと輝く。
「先生の演奏初めて!」
「そうなの?」
「うん。来年のリサイタルには行くつもりなのだけど、その前に聴けるなんて思わなかったからすごく嬉しい!」
 目をキラキラと輝かせたまま、弓弦の演奏を正座待機。そんな感じ。
 演奏が始まると、ほんの少し口を開けた状態でじっと見入っていた。
 一方、俺はちょっとびっくりしていた。
 始まった曲がショパンのエチュードだったからだ。
 弓弦のショパンには定評があるが、こういう場で弓弦が選ぶとは思えない。もっとしっとりとした聴かせる曲を選んでくると思っていた。
 ただでさえ意外なのに、短い曲だからか、続けざまに数曲エチュードを奏でる。
 視界の隅で翠葉の右手が動いているのに気づき、はっとした。
 もしかして、翠葉の受験曲……?
 作品番号十の一、十の八、エオリアンハープ――
 難易度にずいぶん開きがある気はするけれど、これは客に聴かせる選曲ではなく、翠葉に聴かせるための曲目なのだろう。
 くそ、ずりぃなぁ……。
 そういう情報は俺によこせよっ!
 とはいえ、俺がパーティーに出て、しかもピアノを弾くなんてことは今日うちに来るまで知らなかっただろうから――あれ? 弓弦は翠葉が来ることも知らなかったはず……。
 つまり何か? 俺から情報を得た時点でセトリを変えたってか?
 やっぱずるいじゃんかっ!
 してやられた感満載で、そわそわしながら手を温めていた。
 弓弦が戻ってきて俺が立ち上がると、隣から「え?」という声が聞こえた。
「慧くんも弾くの?」
「そっ! 取引あれこれで弾く羽目になっちゃったから、ま、聴いててよ」
「うんっ!」
 こいつ……ピアノっていうか、音楽が本当に好きなんだなぁ……。
 そんなことを思いながらステージへ上がった。
 よう、ベヒシュタインちゃん。久しぶりに弾くけどよろしくな! それから、響子も。今日は翠葉に飛び切りの演奏を聴かせたいんだ。見守っててくれよな。

 曲はドビュッシーの夢想。
 正直、人前で弾くには抵抗のある仕上がり。それでも、翠葉に喜んでもらいたいから。
 あんなに熱心に聴いてくれるのだから、相応の演奏を届けたいし、気持ちまで伝わってくんねーかな、とか思うわけで。
 演奏に集中しながらも、脳裏に翠葉がちらついた。
 この感覚は響子がいたころを思い出す。
 あのころの俺は、響子に演奏の感想を聞くのが楽しみで、いつだってわくわくしながら弾いていたのだから。
 それが、年を追うごとに難しくなっていったのは、外野の声が耳に入ってきて、その言葉の意味を理解するようになってから。
「親の七光り」だの、「環境に恵まれているのだから、上達して当然」だの、「コンクールで入賞しているのは出来レース」だの。
 そんな言葉に煩わされることはない、と響子と弓弦だけが親身になってくれた。でも、幼かった自分にはものすごく難しいことで、大人の言葉が信じられなくなっていったし、人が口にする自分の演奏の評価も素直には聞けなくなっていった。
 そんな俺に弓弦が言った。「今は人の評価を気にするのはやめよう」と。その言葉は俺をとても楽にしてくれた。
 すべて自分本位。自分が求めるものをひたすらに追い続けてきた。
 そうして先生の指導も素直に聞けなくなり伸び悩んだ時期もあったけど、高校で出逢った先生のおかげでまた、少しずつ人の意見を聞けるようになってきた。
 でもまだ、素直に聞ける人間とそうでない人間がはっきりと分かれるし、心無い言葉に対する感情コントロールは不得意なままだ。
 考えてみれば、俺が荒れてたときもそうでないときも、変わらず側にいてくれたのは弓弦や「Seasons」の四人だったっけ……。
 そこへもうひとり、翠葉が加わってくれたら嬉しいな。

 一番に翠葉の感想が聞きたくて、俺は弾き終わるとすっ飛んで翠葉の元へ戻った。
「どうだった!?」
「すてきだった! それから、ちょっとびっくりして、羨ましいなぁ、って思った」
「へ?」
「慧くんの演奏を聴くのは三回目でしょう? 一度目はラフマニノフピアノ協奏曲第二番第一楽章。圧巻としか言いようのない演奏を聴かされて、次は表情がくるくる変わるモーツァルトのきらきら星変奏曲。で、今がドビュッシーの夢。こんなにも雰囲気の違う曲を弾けて羨ましいなって……。それとね、この曲、とっても好きな曲なの。だから、クリスマスプレゼントをいただいた気分になったよ」
 言いながら、翠葉はにこにこと笑っていた。
 こいつの感想が心地よく耳に響くのは、誰の息子とか、どんな家に育ったかとか、そういうフィルターが一切かかっていない言葉だから。ただ、音楽を音楽として聴いてくれるそれが嬉しいと思う。
 幸せな気分で翠葉の感想を聞いていたのに、後ろから声をかけられ振り向くと、大御所と呼ばれるピアニスト、五条綱吉先生が立っていた。
 これはもしかしてもしかしなくても、演奏の評価や曲の解釈あれこれが始まろうとしているのではなかろうか。
 途端にうんざりした思いに占拠される。
 さらに耳のいい俺様は、五条先生以外の声だって拾ってしまうわけで……。
「親の七光り」だの、「一介の音大生のくせにこんな場で弾くなんざ分をわきまえていない」だの、「大御所ピアニストに話しかけられていい気になっている」だの。
 子どもに親は選べねぇって知らねぇのか、アホ。
 一介の音大生であることなんざいやってほど理解しているし、願わくばこんなところで弾きたくないんだよ。なんだったらおまえが代わりに弾いてくれよ。
 それにな、そんなに大先生の目に留まりたいなら、この会場で、音楽家だらけのこの場でそれなりの演奏してみせろっつーんだ。
 イライラが最高潮に達したとき、
「五条先生、言葉より何よりも、先生の演奏に勝るものはございません。今一度、演奏をお聞かせ願えないでしょうか」
 弓弦の言葉に気を良くした五条先生は、もったいぶりながらピアノへと導かれていった。
「慧くん……大丈夫?」
 長椅子に座っていた翠葉が心配そうな顔で近くまでやってきて、俺を見上げていた。
「あ~……大丈夫っていうか、割と苛立ってるっていうか……」
 超絶ささくれモードっす……。
 翠葉は苦笑しながら、
「聞きたくない言葉は聞こえなければいいのにね……」
 明確な言葉は避けつつも、俺を気遣ってくれているのが伝わってくる。さらには視線を落とし、そっと俺の手に触れた。
「慧くん、これはやめよう? ピアノを弾く大切な手でしょう?」
 翠葉の白く細い指先が、力任せに握っていた俺の拳を少しずつ解いていく。と、中指の中節に少しの血が滲んでいた。
 どうやら力を入れすぎて、さして長くもない親指の爪が食い込んでいたらしい。
 翠葉は傷を目にするとバッグから出したハンカチを押し当て、
「慧くんのピアノ、私は好きよ」
 その言葉に、心が緩む感覚を覚える。
 なんていうか、ちょうどいいぬるま湯に心臓が浸かった気分。
「たとえば?」
「たとえば……芯があってぶれない音。それから、心に真っ直ぐ飛び込んでくる音。さっきのドビュッシーも、暗い水底に光が差し込むようなイメージがあって、その光を頼りに聴いていたらあっという間に終わっちゃったの。この、真っ直ぐに飛び込んでくる感じは慧くんの人柄なんだろうね。慧くんの言葉も同じくらい真っ直ぐ飛んでくる」
 翠葉の必死な説明に、強張った心や手が少しずつ解されていく。と、五条先生をピアノへ誘導した弓弦が戻ってきた。
「慧くん、御園生さんをベーゼンドルファーの部屋へ案内してあげたらどうかな?」
 翠葉ははじかれたように顔を上げ、
「えっ? このおうちにあるんですか?」
「今日はベヒシュタインを使ってますからね。別室にあるはずですよ。ね? 慧くん?」
「……ある。今は一階の西側の部屋に」
「僕はこの演奏が終わったあと、軽食を用意してから行きます」
 俺たちは弓弦に背を押され、会場をあとにした。
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