光のもとでⅡ
卒業式

好きな人の卒業式 Side 翠葉 01話

 三月三日――それは毎年行われる藤宮の卒業式の日。いつの年も日曜日でない限り、この日に卒業式が行われるという。
 私は朝起きて顔を洗うと、パジャマ姿のままリビングへと向かった。
 まっすぐ窓際まで行きレースカーテンを開ける。と、そこには白っぽさが目立つ、けれど雲ひとつない空が広がっていた。
「晴れ……」
 滑らかに動く窓を開け、階下の木々たちに目を向けるも、それほど強い風は吹いておらず、少しひんやりとした空気が頬を撫でた。
「リィ、どうかした?」
 背後から唯兄に声をかけられ振り返る。
「あ……えと、天気と風はどんな感じかな、と思って」
 唯兄は窓から手を出し、
「今日は降水確率零パーセントだよ。風はぁ……そんなでもないね? でも、パジャマ一枚で外に出るにはちょっと寒いと思うよ?」
 暗に、早く部屋に入りなさいと言われ、私は素直に従った。
「今日、いつもより早く行くって言ってたけど、なんかあんの?」
「卒業式」
 唯兄は「あぁ、司っちの卒業式」と手を叩きながら納得した。
「感慨深い?」
 顔を覗き込まれるようにたずねられ、
「うん……ツカサの制服姿が今日で見納めだなぁ……って」
「そっかそっか。でも、今日くらいは写真だって撮らせてもらえるでしょ? 桃華嬢あたりに頼んでふたり並んだ写真も撮ってもらいなよ」
 もちろんそのつもりではあるのだけど、今も写真を撮られるのは苦手なのだ。
 だからと言って、三脚を使って撮るのもどうなのか、と考えてしまう。
 でも、生徒会メンバーが揃うのも最後だし、みんなで写る写真も欲しいから、やっぱり三脚は持っていこう。
 そう思って部屋へ戻ると、クローゼットから三脚を取り出しかばんの脇に立てかけた。
 昨夜アイロンをかけたブラウスに袖を通し制服を身に纏うと、私はドレッサーの椅子に座り、鏡に映る自分と向き合う。
「髪型、どうしようかな……」
 何もしなくても良かった。けれど、ツカサにもらったトンボ玉を身につけたい想いが強い。
 胸元には、ネックレスに通した指輪がすでに鎮座しているため、トンボ玉を身につけるなら髪の毛を結ぶしかない。
 少し悩んで、左サイドの髪の毛を柘植櫛で掬う。その髪を細かく編みこみ、耳の下あたりにトンボ玉を通したゴムで結んだ。
 泣かない自信などないけれど、髪を結った都合上、できるだけ我慢しなくては……。
 そんなことを思いながら立ち上がり、唯兄とお母さんが待つリビングへ向かった。

 生徒会の仕事は昨日のうちに終わっていて、今日登校してすることは何もない。でも、いつものように誰もいない教室から、人が少しずつ登校してくる様を眺めていたくて、私はいつもよりだいぶ早くに家を出た。
 公道に植わる街路樹はすべて落葉していたのに対し、校門から校舎まで続く桜には硬い蕾が見られる。並木全体を見渡せば、全体がほんのりと赤味がかって見えた。
「でも、さすがにまだ花は咲かないよね……」
 梅は二月に咲いてすでに散ってしまっている。
 そんな時期に卒業式だなんて、寂しさに拍車をかけるようだ。けれど、そんな寂しさを払拭するように、昇降口の入り口にはたくさんの花が待ち受けている。言わずと知れた、華道部と園芸部の作品である。そして、華道部の部長になった桃華さんの作品が、桜林館の半月ステージに飾られている。
 ところどころに普段とは異なる景色があって、「あぁ、今日は本当に卒業式なんだ」と思うのに、どこかまだ実感がわかない。
 実感がわかないうちに何もかもが終わってしまったらどうしようか。
「翠葉、おはよう」
 不意に桃華さんに声をかけられ驚く。
 背後から声をかけられたのならともかく、桃華さんは桜林館の方からやってきたのだ。
 それの示すところは、すでに登校してきていた、ということなのだけど……。
「……おはよう」
「何、ぼーっとしてるのよ」
「えぇと……」
 私はどちらを先に話すべきか迷いつつ、表に飾られたお花に視線を向けた。
「なんだか、実感がわかないの……。昨日だって散々卒業式の準備をして、今も外に飾られたお花を見れば卒業式なんだ、とは思うのだけど……」
「そうねぇ……まぁ、私たちが卒業するわけじゃないんだから、そんなものじゃない? 三年を見送るときになったら、いやでも実感するでしょ」
「そうかな……? ところで桃華さん、学校に来るの早くない? 私、一番のりかと思っていたのだけど……」
「昨日はお花いけたり生徒会の仕事にかかりきりで、在校生代表の送辞チェックまで手が回らなかったの。だから今、職員室へ行って、教頭先生のチェックを受けてきたところ」
 言いながら、桃華さんは右手に持った式辞用紙をヒラヒラと振って見せる。
 おそらくは、何を指摘されることなくチェックを終えたのだろう。そんなところはツカサとそっくりだ。
「お疲れ様」
「ありがとう。あとは読み上げるだけね」
「期待してます、生徒会長様」
 少し茶化して言うと、
「もう、人ごとだと思って!」
 私は笑いながら、
「ごめん。でも、華道部部長に加えて生徒会長は本当に大変だと思うから」
「それを言うなら、翠葉だって写真部部長兼、生徒会会計じゃない」
「でも、私の場合、写真部の二年が私しかいないから自動的に部長になってしまっただけで、華道部みたいにたくさんの人の中から選ばれたわけじゃないもの」
 そんな話をしながら、ふたり分の足音しか聞こえない静かな廊下を歩いてクラスへと向かった。

 教室へ着くと、私はかばんから小さな包みを取り出す。
 それを持って桃華さんの席まで行くと、
「桃華さん、ハッピーバースデイ!」
「え?」
 桃華さんは驚いた顔で私を見上げる。
「今日、お誕生日でしょう? だから、プレゼント!」
 桃華さんは目を細めて嬉しそうな顔になる。
「嬉しい……」
 そう言って包みを受け取ると、開けてもいいかをたずねられた。
「開けて開けて?」
 箱は手のひらに載るほどに小さい。けれど、桃華さんなら絶対に喜んでもらえる自信があって、丁寧に包装を解いていく指先をじれったい思いで見つめていた。
 包装紙から現れた桃色の小箱を開けると、
「……もしかして、帯留め?」
 言いながら、ひし形のそれを取り出す。
「わぁ……かわいい」
 桃華さんは目をキラキラとさせながら喜んでくれた。
「それね、ガラスじゃないのよ」
「え……?」
「ローズクォーツ! 恋愛に絶大な効果をもたらしてくれる天然石!」
 もっとも、桃華さんの恋は成就しているし、蒼兄と仲たがいするとは思いがたいのだけど。
「七宝焼きや陶器、ガラスでできた帯留めはたくさん持っているけど、天然石でできた帯留めは初めて! それに、こんなに柔らかなピンク色の帯留めは持ってないからとっても嬉しいわ。大事にするわね」
 そう言うと、桃華さんは小箱に帯留めを戻した。
「今日の午後は蒼兄とデートなのでしょう?」
「そうなの。蒼樹さん、午後から半休とってくれてて……」
 ほんのりと頬を染めて話す桃華さんがとてもかわいらしく見えた。
 そんな桃華さんをずっと見ていたくて、去年のクリスマスはどんなふうに過ごしたのか、どんなプレゼントをもらったのか、思いつく限りを次々と質問していく。と、桃華さんは恥ずかしそうに話し出した。
 その内容はかなり衝撃的で、思わず絶句してしまうこと数回。
 クリスマスのプレゼントは三つ並べられて「どれがいい?」とたずねられたというのだから、間の抜けた反応をしてしまっても仕方がないと思う。
 さらには幸倉の家での会話のあれこれ。
 まさか桃華さんから身体の関係を迫るとは思ってもみなかった。けれど、それに対する蒼兄の対応はなんとなく想像ができて――
 呆然としていると、
「翠葉たちはどうなのよ……」
 と、唇を尖らせて訊かれる。
「えっ? どうって、何が?」
「だから……その、身体の関係っ」
「あっ、わっ、えと……その――」
 さすがに桃華さんの話だけを聞いて、自分の話をしないというわけにはいかず、私は観念して静かに口を開いた。
「初めて求められたのは去年の夏、インターハイで優勝したとき。インハイ前に優勝したら願いごとを聞くって約束をしていて、その願いごとを優勝した日に提示されたのだけど、私、まだ覚悟がなくて……」
「拒否したの?」
 私はコクリと頷く。
「その代わり、キスだけは自由にさせてくれって言われて、たくさんキスされました……」
 火を噴きそうなくらい顔が熱い。けれど、桃華さんは追撃の手を緩めはしない。
「初めは、ってことは次があるのよね?」
 笑みを深めた桃華さんにたずねられる。
 私は唸りながら口を開いた。
「次はクリスマス。このときは身体を求められたというよりは、何が怖いのかを訊かれて……」
「訊かれて?」
「説明するのに必要で、飛鳥ちゃんの初体験話をしちゃった」
「あぁ……アレね」
 桃華さんはげんなりした様子で外に目をやった。けれどすぐに視線を戻し、
「そしたらあの男はなんて?」
「入らないものを無理に入れるわけじゃないし、対策はあると思うからって……。自分本位にならないように気をつけるって約束してくれた」
「で?」
「もう待つのも限界だから、期限を設けようって言われたの……」
「もしかして今日っ!?」
「違うよっっっ。ツカサには卒業式って言われたのだけど、結果的には私の提案を呑んでもらえたのっ」
「……で、いつ?」
「ツカサの、誕生日……」
「そっか……ついに翠葉も大人の階段上っちゃうのね」
 桃華さんは憂いを含んだ表情で視線を逸らした。
「桃華さんは……?」
 兄の恋愛事情に詳しくなるのは少し抵抗がある。けれど、訊かずにはいられなかった。
 桃華さんは小さくため息をつき、
「私の気持ちは嬉しいって言ってくれたけど、手を出してくれそうな気配は微塵もないわね」
「そうなの?」
 桃華さんは頷く。
「おそらく理由はいくつかあって、そのうちのひとつは年の近い妹がいること。それから、親公認の交際になったことによる弊害」
「弊害……?」
「信頼されているからこそ、未成年の私には手が出せない。たぶん、そんなところ。だから、下手したら高校卒業するまで――もしくは、成人するまではキスしかしてもらえそうにないわ」
 まるで、「手を出して欲しいのに」と言うような言葉に私はびっくりしていた。
「飛鳥ちゃんの話を聞いたのに、桃華さんは恐怖心とかないの?」
「そりゃ、未知のものに対する不安はあるけれど……。相手は蒼樹さんだし……大きな不安や恐怖心より、触れ合いたい気持ちのほうが大きいわ」
 言いながら桃華さんは俯き、熱を持った顔を艶やかな髪で隠した。けれどすぐに顔を上げ、
「考えてもみて? 私たち、一年の夏からお付き合いしてるのよっ!?」
 食って掛かる勢いに少しびっくりしたけれど、そういうものなのかな、と疑問に思う。
 一緒にいる時間が長ければ長いほど、相手を求める気持ちが高まっていくものなのだろうか――
 だとしたら、桃華さんから関係を迫ったのにも納得がいくかもしれない。
 それに、「触れ合いたいと思う気持ち」……。その気持ちがまったくわからないわけじゃない。でも、桃華さんは私よりも一歩先の気持ちを知っている。そんなふうに思えた。
「私は何を言うこともすることもできないけど、桃華さんの願いが早く叶うといいね」
 桃華さんはプイ、と顔を背け、
「せいぜいこの石に願うことにするわ」
 そう言って、机の中央に置かれた小箱を人差し指でつついて見せた。
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