光のもとでⅡ

Side 司 03話

 温室に入ると、翠は屋内の人間に視線を走らせる。つられて視線をめぐらせると、二十代から三十代と思われるカップルが四組と老夫婦が二組。老夫婦以外の男女の不自然な距離感を鑑みるに、見合い中を彷彿とさせた。
 翠を中央近くのテーブルへ案内すると、俺は上着の内ポケットに入れていたものを取り出す。
 それは、昨日市役所で手に入れた婚姻届。
 翠は不思議そうな顔で、「それ、なあに?」としげしげと封筒を見つめていた。
 封筒から用紙を取り出して数秒後、
「婚姻届っ!?」
 あまりの声の大きさに驚いたが、つまりは翠もそのくらい驚いた、ということなのだろう。
 三つ折のそれを丁寧に広げ、翠の前に差し出すと、
「入籍は六年後でしょう? どうして婚姻届なんて――」
 まじまじと婚姻届を見る翠は、俺の記入欄がすでに埋まっていることに気づいたようだ。
「本当は婚約指輪を贈りたかったけど、それは六年後の結納のときにって話になっただろ? だから、その代わりになるものが欲しくて」
 俺は追加でペンを取り出し、翠の右手に握らせた。
 翠はペンと婚姻届を何度か視線を往復させ、婚姻届を注視し始めた。けれども、ペンのキャップをはずすには至らない。
「安心していい。俺と翠が記入したところでまだこれは完成じゃないから」
「どういうこと……?」
「ここ」
 向かって左側の証人欄を指差し、
「ここに成人ふたりの名前が必要。俺が大学を卒業したら、うちの父さんと零樹さんに記入してもらう予定。それまでは未完成の婚姻届」
 翠は証人欄を見たまま動きが止まってしまった。
「書くの、抵抗ある?」
 翠ははじかれたように顔を上げ、
「ううん、そういうことじゃないの。ただ、ちょっと緊張してしまっただけ……」
「書き損じても問題はない。予備であと二枚もらってきてるから」
 茶封筒からその二枚を取り出して見せると、翠は「クスリ」と笑みを零した。
 俺は決まり悪く視線を逸らし、市役所でのやり取りを思い出していた。
 婚姻届はほかの申請書とは違い窓口でもらう必要があった。そこで、婚姻届を所望したところ、受付の女性に「え?」という顔をされた。
 たぶん、未成年で婚姻届をもらいに来る人間は少ないのだろう。そのうえ、「三枚」と言ったのが驚かせた要因かもしれない。「書き損じ用に」と付け足すと、慌てた様子で用紙を三枚用意してくれた。
 翠は一文字一文字丁寧に書き連ねていく。じっとその様子を見ていると、
「あ……でも、今日は印鑑持ってないよ?」
「後日捺印すればいい」
 すべての欄が埋まっていることを確認すると、俺は封筒に婚姻届を戻した。
「これ、俺が持っていても?」
「もちろん」
 実際の重量とは異なる重みを感じる用紙をもとの封筒へ戻し、一番安全な胸元へとしまった。
 翠に視線を戻すと、
「結納のとき、ツカサは婚約指輪をくれるのでしょう? 私は何を返せばいい? 何か欲しいもの、ある?」
 期待に満ちた目で訊いてくる様がかわいい。その目の輝きは、まだ幼い煌に通じるものがあった。
 でも、欲しいもの、か……。
 男である自分が常に身につけていられるものは限られている。
 結納の返礼品に多いのは時計だと聞くが、自分も例外ではない。
「秒針つきの時計、かな……。医者になってからも使えるし」
「じゃ、そのときになったら時計探しに行こうね?」
 未だ翠と買い物を主体としたデートに出かけたことがないだけに、その日がちょっと楽しみになる。でもその前に、翠と買い物へ出かけるのもいいかもしれない。
 そんなことを考えているところへ園田さんがメニューを持ってやってきた。
「司様、翠葉お嬢様、本日はご婚約おめでとうございます」
 深々と頭を下げる園田さんに、今度は翠が礼を言った。
 どうやら、だいぶ緊張は解れたらしい。
「翠葉お嬢様はお料理をあまり召し上がられなかったとうかがったのですが、お身体の調子が優れないなどございますか?」
「あ、いえ、そういうことではなくて、なんだか緊張して食べられなかっただけなんです」
 翠はとても決まり悪そうに答える。すると、
「それは緊張もなさいますよね」
 園田さんは翠の意見を掬い上げると、広げたメニューをテーブルへ載せた。そして、左側のページの大半を占めるメニューを手で指し示し、
「こちらのアフタヌーンティーセットが当ホテルのお勧めなのですが、いかがでしょう。サンドイッチにスコーン、一口サイズのケーキが八種、上段にはフルーツの盛り合わせ。こちらにハーブティー、紅茶、コーヒー、またはソフトドリンクがつきます。司様とご一緒に召し上がられてはいかがですか?」
 翠はメニューを覗き込み、「わぁ」と目を輝かせた。そして、ほかのものには目もくれず、
「じゃ、これでお願いします」
「かしこまりました。司様はコーヒー、翠葉お嬢様はハーブティーでよろしいですか?」
「はい!」
「ハーブティーは何になさいますか?」
「カモミールティーでお願いします」
「それではすぐにご用意いたします」
 そう言うと、園田さんは温室のフロアカウンターへ向かい、厨房へオーダーを入れ始めた。

 翠は周りを見回しながら、
「老夫婦以外はお見合いっぽいね?」
「そんな感じだな」
「お見合いって、本当にホテルでするものなのね?」
「ま、食事して歓談するにはちょうどいい場所なんじゃないの? ホテルによってはこうして花を見ながら歩く場所もあるし」
「でも、お花を見ながらお花のお話しかできなかったら本末転倒よね?」
 何がどうしてそういう発想……?
 疑問に思いつつ、
「そこは当人しだいなんじゃない? 互いが乗り気なら、わざわざ花の話なんかしないだろうし」
「そっか……」
 でも相手が翠だったら――
 そこに存在する花を無視することができず、律儀に目の前に咲く花の話をしそうだな。そしたら相手の男は脈なしと思って諦める羽目になるのだろうか。それとも、少しでも気に入られようと花の話に興じるのだろうか。
 くっ……根っからの難攻不落姫だな。
 そう思うと、なんだかすごくおかしかった。
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