光のもとでⅡ

決戦は月曜日 Side 慧 03話

 翠葉がピアノのレッスンを受けている間、俺は譜読みに専念することで心の平安を取り戻した。
 スコアを与えられればある程度メンタルを回復することができるのだから、ずいぶん安上がりな人間だと思う。
 ふと視界の左側で人影が動き、二時間のレッスンを終えたことに気づく。
 そこで意を決して、ソファの方へ歩いてきた翠葉に声をかけ捕まえた。
「翠葉さ、先々週の日曜日、ウィステリアホテルにいた?」
 非常に今さら感溢れる質問だし、自ら地雷を踏みに行ってる自覚は十二分にある。
 でも、さっきは突然の爆撃になすすべもなかったわけだけど、地雷があるとわかっていて踏みに行く分にはもうちょっとまともな対応ができるんじゃないかと思いたい。
 それにやっぱり、翠葉の口から聞いて自分がどう感じるのかを知りたいし……って、さっき「婚約した」って言葉はもらってるわけだけど……。
 俺、考えていること何もかもが支離滅裂かっ!?
 だって仕方ねーだろっ!? 不意打ちみたいな爆撃食らって、その瞬間から頭の中とっちらかったままなんだよっ!
 翠葉に返答を促すと、
「えっ!? あっ、うん、いた。でも、どうして?」
 くりっとした目に見つめられ、思わずうな垂れたくなってしまう。
 やっぱりあの日に婚約したんだろうなぁ……。
 あ~……だめじゃん、俺。地雷踏み抜いて力尽きてんじゃんか……。
 すると、
「実はその日、僕も慧くんもホテルにいたんですよ。知人の結婚式がありまして」
 弓弦が助け舟のようでそうでもない補足をしてくれた。
 そしたら今度は、ずっと本を読んでいたヤツが会話に入ってきた。
 爽やかな笑みを浮かべて、
「実はその日なんです。自分が翠と婚約したのは」
 ツカサはかばんから封筒を取り出すと中から写真らしきものを取り出した。それをテーブルに載せると、ゆっくりとこちらへ滑らせた。
「そのときの写真です。よろしければどうぞ」
 俺は写真に手を伸ばすことはできなくて、けれど写真から視線を剥がすこともできずにいた。
 そんな俺の前を弓弦が横切り、笑みを湛えているであろうツカサの隣に腰を下ろして写真を手に取った。
「御園生さん、表情が硬いですね」
 弓弦が笑いながら感想を述べると、
「それは言わないでやってください。三十分も写真を撮り続けて、一番まともなのがその写真だったんです」
 ちらりとヤツの表情をうかがい見ると、実ににこやかに話していやがった。
 自己紹介されたときから思ってたけど、こいつ絶対性格悪いっ!
 たぶん、ツカサは気づいている。俺が翠葉に気があることを。
 そのうえで、この対応なのだろう。
 まじ食えねえ男。
 翠葉、おまえ男見る目ないだろっ!?
 こいつの従兄って優男にも、芸大祭のときおもむろに牽制されたしっ。
 そう思っているところに弓弦がほんの少しの毒を吐いた。
「司くん、今日はいつになく饒舌ですね」
 ツカサは無言で笑みを深めると、
「えぇ、普段でしたら会話に加わるようなことはしないのですが、必要最低限の情報は開示しておいたほうがいいと判断したもので」
 そう言うと俺に視線を向け、さ、と笑みを消して無表情になった。
 くっそ、こっちが本音で本性かよっ!
 翠葉、おまえこいつの本性知ってるっ!? もしかして気づいてないっ!?
 こんなのと婚約していいのかよっ。
 むしゃくしゃした俺は、自分の精神コントロールを図るためにピアノを弾きたくなる。
 いっそ、翠葉が作った曲でも弾いて、「おまえにはできないだろ?」といやみ返しをしてやりたい。
 そんな思惑のもとに、
「翠葉、ピアノ借りていい?」
「え? あ、どうぞ?」
 俺はもらったスコアを持ってピアノへ向かった。
 さっきの二時間でほぼ譜面は覚えた。でも、こいつのスコア、面白いくらいに指示表記がないんだよなぁ……。
 ま、こいつが弾いた演奏はきっちり覚えているから、どこをどう弾いてほしいのかはだいたいわかるんだけど。
 ピアノの前でいつもの儀式を始める。
 ハジメマシテコンバンハ。あのさ、ここ、俺にとってはめっちゃアウェイなわけ。だから、おまえくらいは俺の味方になってよ。
 そんな挨拶を済ませて鍵盤に指を乗せる。と、実に味わい深い音色が鳴り出した。
 うぉっ……いい音すんなぁ。
 スタインウェイだからとかそういうことではなく、この深みある音はある程度年数を経ていないと出せないものだ。だからといって枯れ切った音ではなく、あくまでも深みある豊かな音色。
 弓弦の調律技術が群を抜くものであることは知っていたけど、これは思わず唸ってしまう域だ。
 音の波に身を任せ、三分程度の短い曲を弾ききる。と、気づいたときには翠葉がピアノ脇に来ていた。
 いつかのように拍手をしながら、
「すごーい! 初見なのにひとつも間違わずに弾けちゃうのね?」
 おうよ! 初見は割と得意なんだ。
「ま、一度聴いたことあったしな。それにしてもこのスコア、指示表記全然入ってねーじゃんか。もっとガツガツ書き込んでくれたほうが弾きやすいのに」
「え? そう……? 手書きだし、見づらくなっちゃうかな、と思って……」
 きょとんとした顔がまたかわいい。
「んなこと言ったら世の作曲家大先生たちのスコアはどうなっちゃうんだよ」
「あ、そっか……。でも、弾きたいように弾いてもらいたい思いもあるのよ?」
 弾きたいように弾いてもらいたいってことは、つまり――
「曲想を奏者に任せるってこと?」
 翠葉はコクリと頷いた。
「それじゃ、翠葉が思い描いてる曲にはならないけど?」
「そうなのだけど……。大好きな作曲家の曲でも、私はこう弾きたいんだけどな……って思うことない?」
「……ねぇな。スコアが第一。忠実に再現していくうえで自分なりの解釈を追加することはあっても、作曲家の指示を無視することはない」
 俺の返答に、翠葉は驚いているようだった。逆に、翠葉の反応に俺が驚いた。
 こいつはこんなところまで響子に似てんだな……。
 響子も同じようなことを言っていた。
 クラシック界では作曲家の意向が絶対だ。それはわかっている。でも、「自分はこう弾きたい」という明確なビジョンがあるのだと――
 まるでじゃじゃ馬。そんな響子の技術を、表現力を伸ばすことに躍起になっていたのは俺の母さんで、響子はその期待にも応えられる人間だった。なのに――……人間思うようにはいかないっていうか、生きられないものなのかも。
 響子を失ってからの母さんはひどく落胆していた。まるで子どもを失った母親のように。
 数年前のことを思い出しながら、俺は翠葉にだめだしを突きつける。
「ってことで、やり直し。これ、もっと指示入れて再度提出」
「えっ……」
「時間的に厳しい?」
「ううん……そんなことはない。音やリズムの確定に時間がかかっただけで、指示表記を入れるのにはそんなに時間かからないと思う」
「じゃ、出来上がったらまた連絡して。そしたら取りにくる」
「ええっ!? 次こそは郵送するよっ?」
 だからさっ、「それじゃ俺が翠葉に会えないだろっ!?」とは言えず、
「いい。取りにくる」
 絶対に譲らん……。
 そんな視線を向けると、翠葉は「わかった」と了承してくれた。
 へへんっ、どんなもんだい。君にはこんな会話はできなかろう?
 上から見下ろす要領でツカサに視線を向けたが、面白くないことに、この男は涼しい顔をして本を読んでいた。
 ほんの数秒前まで鼻高々な気分だったのに、一瞬にしてむしゃくしゃした気分に逆戻り。
 そこへ弓弦の時計が鳴り、休憩時間が終わりを告げた。

「さ、聴音の時間です」
 聴音かぁ……。俺も一緒にやろっかな?
 幸いかばんの中には五線譜も入っていることだし……。
 がさごそとノートを取り出すと、俺の隣に座った翠葉が不思議そうな顔で俺を見ていた。
「俺もやる」
 一言告げると、翠葉はすぐに納得して意識を弓弦へ戻した。
 そこから三十分は延々聴いては書くの繰り返し。
 若干テンポが速いのは気のせいではない。たぶん故意的に、少し早めのテンポ設定にしているのだろう。
 このテンポで練習をしていれば、試験時の聴音はゆっくりに聴こえ、きっと有利に働く。
 最後に答えあわせをすると、翠葉は一問も間違えることなく譜面を起こしていた。
 ふーん……和音もきちんと聞き取れてるし、リズムもきっちり取れてる。
 弓弦からソルフェがちょっと苦手っぽいって話を聞いてたけど、聴音が問題ないとしたら、ネックなのは楽典か?
 楽典のレッスンは、出していた課題の答え合わせを中心に進めるらしい。
 かわいくない分量の問題数に、思わず苦笑い。
 相変わらず、弓弦も容赦ねぇな……。
 でも、そこまでたくさんの問題を間違えているふうでもない。
「だいぶ間違いがなくなってきましたね」
「先生のご指導のおかげです」
「いいえ、苦手なものでもきちんと取り組む御園生さんの努力が実を結んでいるんですよ。だからつい欲が出てしまうんですよね。次の課題は少し難しいものを用意しました。わからないところは飛ばしてもいいですし――」
「それなら。問題の写真添付してメールくれたら、俺がヒントなりなんなり与えるけど?」
 我ながらグッドなアイディアだぜ!
「あぁ、それはいいですね」
 弓弦も便乗してくれたのに、翠葉は「でも」と申し出を断ろうとする。
「スコアの対価として、そのくらいさせてよ」
「でも、スコアといっても手書きだし、たかだか私のオリジナル曲だし……」
「そーこっ! 自分を卑下しない。俺はあの曲すげー気に入ってるからスコアがほしいって言ったわけだし」
 翠葉は途端に身を硬くして、「善処します」と答えた。
「では、今日のレッスンはここまで」
「ありがとうございました」
「来週も同じ時間で大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「ではまた来週」
 俺と弓弦は手早く身支度を済ませ、ミュージックルームを後にした。
 あの男とふたりきりにさせるのにめっちゃ抵抗を覚えながら――
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