晴れた空、花がほころぶように
3 彼と 私の 世界

 あんたとはよく会うな。

 二度目に会った時、空良はそう言った。
「一人で出てきて、怒られないの?」
 内緒で抜け出してきたのだと、私は正直に言った。
「あんた、変わってんのな」
 小さく、彼は笑った。
 確かに、都会ならいざ知らず、こんな田舎の、コンビニさえ遠い静かな夜に、出歩く中学生はいるまい。
 でも、それは私だけではない。
 私が変わっているというなら、彼も十分変わっている。
 私がそう言うと、

「男はいいんだよ。あんた、女だろ。何かあったらどうすんの」

 彼は、少しだけ呆れたように、でも、私が憶えている、やわらかく、優しい声で返してきた。
 正直、私もそれは考えた。
 田舎であっても、こんな夜中に出歩いて、もし、何かあったらどうするのかと。
 ニュースで見るような拉致、暴行、殺人、嫌な想像が頭をよぎったのは確かだ。
 でも、あの夜、私は彼にぶつかるまで誰にも会わなかったし、彼と会って家に帰るまでも誰とも会わなかった。
 車の一台でさえ通らなかったことを思い返し、この裏道は、夜間は人の通りが皆無だということを確信していた。
 そして、だからこそ彼がいたということも。
 同じ曜日、同じ時刻、同じ場所に、やはり天野空良はいた。
 そして、同じ角から歩いてきて、私を見つけて驚いた顔をして一瞬立ち止まった彼を見て、胸が高鳴ったことを嬉しく思った。
 私の世界に、天野空良が存在している。
 そして、彼の世界にも私が存在している。
 それは、夢でも何でもない、現実だった。

「なんで、そこで笑うかな」

 内心が、顔に出ていたらしい。
 私は慌てて顔を引き締めた、つもりだった。
 でも、そんな私を見て、今度は、彼がふっと笑った。
 ほんの少し緩んだ、端正な顔が男の子なのにかわいく思えた。
「変なやつ」
 笑ってそう言う彼に、私も笑い返した。




「あんたがこの頃弾いてる曲、なんて言うの?」
 私の家に向かって、先週と同じようにゆっくり歩いている時、唐突に彼が聞いてきた。
 思わず私は立ち止まってしまった。
「聞いてたの?」
「うん」
 何でそんなことを聞くのかと言いたげな、わずかな表情の変化が見えた。
「――いないのかと思ったの。だって、全然気配がしなかったから」
 ああ、と彼は納得したような顔になった。
「いつも、鍵かけて奥にいるからかな」
「そっか」
 また、自然に歩き出す。
 何だか嬉しかった。
 私のピアノを、本当に彼が聞いていてくれたのだとわかったから。
「で、なんて曲?」
 もう一度、彼が聞いたので、私は答えた。
 ドラマにも使われて、割合有名になってしまった曲だが、私は子どもの時から好きだった。

「『主よ 人の望みの喜びよ』――か」

 二度、彼は繰り返した。
「どんな意味?」
 もう一度、彼が聞く。

神様は私達の望みであり、喜びである。

 私の答えに、彼はふっと小さく笑った。
「神様を信じてるやつなら、そう言うだろうな」
 その声は、どこか寂しそうに聞こえた。
 彼は信じていないのだろうか。
 私は、ピアノを好きだから、知っていて当たり前だけど、私が好んで弾くクラシック――特に、私が今弾いているこの曲は、もともと神様に捧げる祈りの歌なのだ。
 神を信じる人によって、同じように信じる人のために、作られた曲。
 私は勿論、クリスチャンでも何でもないけれど、何百年も前の人達が作ったたくさんの祈りの音楽を信じていた。
 その、神様を信じる心の美しさと純粋さを。
 音楽の中に、神様はいるんだと。
 その美しい音が、美しい響きで奏でられるその場所に、確かに、神様は存在したのだろうと。
「俺は――信じないな。だって、見たことも聞いたことも感じたこともないから」
 でも、その後に、彼はこう続けた。

「でも、いたらいいと思う。こんなにきれいな曲があるなら、それを聴いてくれる神様がいたら、いいと思う」

 それは、彼の心からの言葉だった。
 その後すぐ、私達は、家の前に着いた。
 彼は、短く「じゃあ」といって、もときた道を引き返そうとした。
「待って――」
 私は思わず、彼を引き止めた。
 彼が振り返る。

 来週も、いるの?

 聞かれて、彼は少し驚いたような顔をしたけれど、数秒私の顔を見つめて、それから、

「うん」

 そう言った。
「そっか――」
 それ以上何も言えなくて、私は黙って手を振った。
 彼も、小さく笑って、片手を上げた。
 そして、今度こそ静かに歩いていった。
 私は、彼の姿が小さくなっていくのを見送ってから、家に戻った。
 静かに着替えてベッドに入る。
 嬉しかったけど、どこか切なかった。
 神様を信じないと言った天野空良。
 でも、もしかしたら、彼はあの言葉のように、神様の存在を信じたいんじゃないかなと思った。





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