平和さんの平和じゃない日常
―3―

雪「…今、何かいたよね…」
素子「いたね…、人体模型がクラウチングスタートしてたね」
七音「いや、なんでクラウチングやねん、走り回るだけでええやん
   なんで陸上部気取りやねん」

 何かが走り回る様な奇妙なもの音のする保健室前の廊下。そこにいたのは、なぜかクラウチングスタートの姿勢でまっすぐに行く先を見上げ、今にも走りださんとしている人体模型だったのだ。あまりにもの奇妙な光景に、我が目を疑って扉を閉める。

雪「と、とりあえず…もっかい見ましょ」
素子「そうね、クラウチングスタートする人体模型って
   意味が分からないものね」

相当疲れているんだ。今さっき見たものは、幻覚か錯覚かだ。そう言い聞かせながら再び扉を開ける。すると今度は、人体模型がプラスチック製の水筒に組んだ水に何やら白い粉を加えて振っていた。そして、あたしたちは再び扉を閉めた。

雪「今度…あれ粉でポカリつくってたね」
素子「もしくはプロテインと言ったところね」
七音「だからなんで陸上部気取りやねん!」

雪「いい? もっかいだけ見ましょ、もっかい!」

二度見ならぬ三度見。ここまで来ると事実であっても、それを認めたくないあまりに拒絶し、同じことを繰り返しているという状態だ。今度ばかりは三度目の正直。何の変哲もない暗い廊下が待っていると心に願う。

しかし、それは叶わなかった。そこにいたのは、重いタイヤを自分の額に縄でくくりつけて一歩一歩を踏ん張りながら廊下を歩く人体模型の姿だった。

七音「……どっからタイヤ持って来てん…」

ここでのあたしの心境は混乱の一言に尽きる。目の前でどこからどう見ても身体の半分側が内蔵や筋肉むき出しのあのプラスチックでできた人体模型が走り回っているのだ。しかも陸上部気取りでクラウチングスタートし、プロテインをつくり、タイヤ引きまでしている。超常現象の存在を肯定・否定にするにかかわらず、混乱せずにいられる人などいるだろうか。

ナラク「あ、ハンゾーじゃん」
素子「え…?」

ナラク「ああ、こいつ半分臓物が丸出しだからハンゾー
    いいネーミングセンスだろ?」
素子「ごめん、ノーコメントでいいかな?」

しかもさらに奇奇怪怪なことに、ナラクというこの自称死神はこの人体模型と知り合いらしい。

ハンゾー「すみません、うるさかったですか?
     夜の学校は誰もいないから、トレーニングに励んでたんですが
     やっぱり迷惑だったでしょうか…
     やっぱり、気持ち悪いですよね。人体模型がベンジョンソンに憧れて
     陸上部っぽいことやってて、飲めないのにプロテインなんて作って
     鍛えたって筋肉もつかないのに。だって僕の身体の組織
     ポリ塩化ビニルですよ、ダイオキシンの原因になるとか言って
     燃やせないんですよ。そうですよ僕はどうせ燃えない男ですよ。
     こんな燃えない男が夜な夜な陸上部気取りで汗も出せないのに
     青春の汗を流そうとたったひとりでもがき苦しむなんて
     迷惑ですよね。はい。目障りですよね。はい。
     理科室に帰れって言う話ですよね…」
素子「誰もそこまで言ってないけど…」

なぜか人体模型のハンゾーはひとりで勝手に落ち込み始めた。

ナラク「こいつベンジョンソンになりたくてずっと廊下走ってるんだよ
    初めは理科室の前で走っていたんだけど、隣の音楽室の
    ベートーベンの目が光ってるから1階に降りて走ることにしたんだ」
素子「音楽室の奴とつながってたんかい」

雪「ところでベンジョンソンって誰?」
七音「知らんのか、巨人 大鵬 ベンジョンソンて言うやん」
素子「いや、間違えてるからそれ…」

ハンゾー「もうおとなしく理科室に帰ることにします…」

人体模型のハンゾーはとぼとぼと肩を落として廊下を歩いていく。完全に人間としての感情が備わっているかのようで、その背中は非常に淋しく思えた。きっとずっと独りぼっちだったのだろう。まだ人体模型である彼がなぜ感情を持ち、身体を動かしているのか、はなはだ疑問ではあるが、たとえこれが夢だとしても自分が起こす行動に罪はない。あたしは思い切って声をかけてみることにした。

素子「待ってよ、走るの早いんでしょ?」
ハンゾー「え?」

ハンゾーが驚くのは当然だが、あたしの思わぬ行動に一番驚いていたのは雪と七音だった。超常現象に関して理解のないあたしが、歩く人体模型に話しかけようとするなど想像もしなかったのだろう。

七音「大丈夫か、平和…頭でも打ったんか?」
雪「いや、これはきっと天災が来る前ぶれよ! 急いで乾パン食べないと」
七音「今食うてどないすんねん」

てんやわんやしているふたりとは対照的に、ハンゾーの顔は一気にぱぁっと晴れあがる。よっぽど競争相手ができたことがうれしいらしい。廊下はふたりの走る陸上トラックとなった。消火器の置いてあるところがちょうどスタートライン。向こう際に行った先の行き止まりがゴールという単純明快なルールでレースは始まった。

七音「ちょっと本気なんか?」
素子「大丈夫、走るにはちょっと自信があるから」
雪「でも女子が男子に勝てっこないでしょ」
七音「いや、その前に人体模型は男って言ってええんか…」
雪「そこはややこしくなるから保留で
  まあ、でも考えてみたら別に勝敗は関係ないんじゃない?
  これがハンゾーにとっては初めてのかけっこになるわけだし」

ハンゾーは相当気合いが入ってるようで、しきりに屈伸をしたり、アキレス腱を伸ばしたりしている。気構えは相当なようだが、あたしにもプライドというものがある。

雪「それなら勝った方がハンゾーにとってもいい思い出になるんじゃない?」
七音「なるほど」

ナラク「じゃあ行くぞ! 位置について! よーい!」

ナラクがどこから持ち出してきたのかわからないピストルで空砲を鳴らし、かけっこが始まる。ピストルの音とともにハンゾーがクラウチングから、とても人形とは思えないような動きで走り出す。その顔には表情などあるはずもないのだが、心なしか少し微笑んでいるように見えた。だがその顔も束の間。ハンゾーの顔は、顎のはずれた驚愕の驚きの表情となった。

素子「よっしゃぁ、勝った!」

そう、このときのあたしにわざと負けてやると言う配慮は一切なかったのだ。そしてこの敗北を境にして、ハンゾーは廊下を走り回ることもプロテインをつくることも、タイヤを引くこともすっかりしなくなったそう。代わりに、新たな学校の七不思議となったのが情報教室で夜な夜なパソコンが勝手に撃ち鳴らされるといった現象だ。

ハンゾー「よし、僕は絶対スティーブ・ジョブスになるんだ」
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