想い涙
真相
嫌な夢だった。
ずっと走っているのに、迫り来るものから逃げることができなかった。
自分が何から逃げようとしているのかさえわからず、ただ息を切らして走り続けることしかできなかった。
助けてもらいたくて、誰かの名前を叫んだところまでは覚えている。
背中にまとわりつく汗を、布団代わりに掛けていたバスタオルで拭う。
もしかしたら、今までのおかしなできごとはすべて、夢だったのかもしれない。
ベッドを占領しているのは大学の友達で、柚穂はきっと、わたしが夢の中でつくり出した架空の人物。
だったら、よかったのに。
そばに落ちていた掛け布団を拾い上げて、ベッドに横たわる少女にかぶせてやる。
眠りを妨げられたのか、寝返りを打って、眉をひそめた。
他人の心配をしている場合ではないのかもしれない。
柚穂は覚醒するまでには至らなかったらしく、再び静かに寝息を立て始める。
役目を果たす必要の無くなった目覚まし時計のスイッチを切り、針の動きを追う。
起きる予定だった時刻は三時間も先だった。
窓の外には明けたばかりの空が広がっていた。
すぐに手持ちぶさたになって、ベランダに出て後ろ手に窓を閉める。
清々しい朝の空気を吸って、動き始める街を見下ろした。
ジャージ姿の男がマンションの前を走り抜けて、入れ替わるようにスーツ姿のサラリーマンが駅へと歩いていった。
かすかにインターホンの音が聞こえて、両側の隣室の様子を代わる代わる伺う。
今の時間を考えたら当然のことだけれど、隣室の住人はまだ夢の中のようで、来客に応じる気配はなかった。
「あのー、誰か来たみたいですよ」
窓が開いて、目を擦りながら柚穂が顔を出した。
「うちだったの?」
玄関へと小走りしながら、頬をよぎる風に既視感を覚えた。
汗ばむ手でドアノブを握りしめ、ゆっくりとドアを押す。
「こんな時間にごめんなさい。話したいことがあるの」
彼女の整った顔立ちを、いつか、芸人が「人間離れした美しさ」と褒めていた。
それは、あながち間違った表現ではなかったのかもしれない。
「愛里」
愛里はTシャツにジーパンというラフな出で立ちで、メイクもしていなかったが、隠しきれない独特の雰囲気がにじみ出ていた。
「入れてもらっていいかしら」
ドアから体を離すと、愛里は我が物顔で上がり込んで、ローテーブルの前に正座する。
「話したいことがあるって言ったでしょう。早く座って」
横柄さに文句を言うことすらできずに、弾かれたように愛里の前に座る。
「あ、愛里だ!」
芸能人に会えた喜びと驚きを隠せない柚穂を、愛里は一瞥した。
「あ、えっと、帰りますね」
愛里に気圧されて、柚穂はスクールバックを手にとって部屋を出て行こうとする。
引き留めようと腰を上げると、愛里に肩を押さえつけられた。
「あの子は話のじゃまになるだけだわ」
ドアの閉まる音がしたのを確認して、愛里はわたしに向き直った。
「あなたは、この件に関係しているんですか」
主語を言わずとも、愛里は頷いた。
「関係してるも何も、当事者ね」
「……被害者、ではないですよね」
「ええ、加害者よ」
愛里の抑揚のない声が、神経を逆撫でる。
「准はどこに行ったんですか!」
テーブルを力任せに叩いても、愛里の表情は少しも揺らがなかった。
「物理的には存在しないわ。この世界には」
「この世界、には?」
「あなたが夢だと思いたいなら、わたしはそれでも構わない。わたしは、人じゃないの。人に似せてつくられた、人を守るための存在」
よくもそんなつくり話を、と笑い飛ばせればよかったのに、何も口にすることはできなかった。
代わりに、唾を飲み込む。
「わたしたちの役割は、未来に大きな悪影響を与える人を選別して、影響が出る前に消すこと」
「消す……」
「最初から、そんな人物は存在しなかったことにするの」
「准は、どうなったの」
「だから、消されたの。直接的、あるいは間接的なのかはわかりかねるけど、あなたの恋人は将来重大な悪影響を与えると判断されて、消された」
愛里は初めて、わたしから視線を外した。
「違うわね、わたしが消したの」
「なんで、准を!」
「言ったでしょう。将来の危険を回避するためよ」
「准は悪いことなんてしてない!」
「今ではなく、将来の話よ。直接的に悪影響を与えなくても、例えば、彼が警察官になって、万引き犯を今回限りだと見逃したとする。そのせいで、後日、万引き犯が殺人を犯す。そんな関わり方でも、消さなければいけないときもあるの」
「そんなこと言ったら、みんなどこかしらで関わってるよ!」
愛里は顔を歪めて、重ねた両手を握りしめた。
「あなたの言うとおり、きりがないから、今までは消すのは当事者だけだった。今回はなぜか人数が桁違いに多い。おかげで処理が追いつかなくて、あなたのように、消えた人を記憶に留めている人たちが現れた」
ふいに顔を上げた愛里の視線は、試すように真っ直ぐに向けられていた。
「とにかくあなたの恋人は戻って来ない。このままじゃ、ね」
「何をすればいいんですか」
全ての真相をわたしが知る必要も、それが許される理由も、あるとは思えない。
そのリスクと引き替えにしてまで、愛里はわたしに何かを望んでいる。
「協力してほしいの」
わずかだが、愛里の声が震える。
はじめて愛里に感情らしいものを見て取った。
愛里が感情を露わにするのは、きっと、あの人のためだけだ。
「瑞人さんに何かあったんですか?」
愛里は頷いた。
「瑞人は消される予定じゃなかった。なのに、いなくなっていた」
次第に、声はか細くなっていく。
「わたしのせい、なの。わたしが、人みたいになったりしたから!」
「人、みたいに?」
「わたしたちには、あなたたちが言う感情というものはないの。不要だから。でもわたしは、瑞人と一緒にいたいと思ってしまった」
二人の仲むつまじい様子を思い出す。
「消えた人って、どうなるんですか」
「普段はすぐに生まれ変わらせているけど、今回はしないそうよ。今回は審査を設けて、通過した人だけがわたしたちと同じ存在になれる。通過できなかった人はそのまま、完全に、消える」
「逆に言えば、瑞人さんが審査を通過すれば、ずっと一緒にいられるんでしょ?」
「通過させたら消した意味がないじゃない!瑞人は審査を通らず消されるのよ!早く、止めないと!」
次の瞬間、耳に届いた乾いた音に、愛里の頬をひっぱたいた自分までもが驚いていた。
「都合が良すぎるってわかってるわ。やっていた側なのに、やられたら悲しむなんて」
愛里は頬を押さえて、自嘲気味に呟いた。
静まりかえった部屋の中に、聞き慣れた着メロが鳴り響く。
「柚穂?」
通話ボタンを押せば、聞こえてくるのは嗚咽ばかり。
「大丈夫、大丈夫だよ」
いつものように言い聞かせて、電話を切る。
「……協力する、何でも」
「助かるわ。でも、一つ聞いても良いかしら」
なんで、わたしの言葉を疑わないの。
「信じないよりも、信じる方が楽だから」
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