想い涙
最後の望み
青々とした稲が、風に吹かれて葉先をたなびかせる。
そのわきで、溢れんばかりに用水路を流れる水に足を浸し、子供たちが騒いでいた。
懐かしい光景に目を細めながら、田畑に囲まれた一軒家の前で足を止める。
蔦が縦横無尽に這う塀の中から表札を探し出して、文字を確認する。
准の家であることに間違いはなさそうだった。
未だにインターホンを鳴らす習慣が根付いていないこの地域の風習に則って、引き戸を開ける。
「こんにちはー」
「はーい」
返ってきたのは、息子と違って愛想の良い、准のお母さんの声だった。
首にかけたタオルで濡れた手を拭いながら、暖簾の奥から顔を出す。
「未花ちゃん?」
「はい、お久しぶりです」
「あらまあ、すっかり都会に染まっちゃって」
「こっちにいた頃はメイクなんてしてませんでしたからね」
世間話をしているうちに、お母さんは玄関に腰掛けて長話をする体勢に入ろうとしていた。
こんな話をするためにここに来たわけではない。
「あの、准のことで話があって来たんですけど」
「准?」
「実は最近連絡が取れなくて、何か知ってたら教えてくれませんか?」
お母さんは首を傾げた。
「ごめんなさい、准くんってどこの子かしら」
足下がぐらりと揺らいで、倒れるように玄関の縁に腰を掛ける。
「……覚えてないんですか」
「ごめんなさいね」
間近で見たお母さんの瞳は、一瞬考えるようにさまよったあと、まっすぐにわたしを見つめ返した。
「いえ、わたしこそ突然すみません」
母親ですら、准のことを覚えていない。
その事実に絶望的な気持ちになると同時に、なぜ准のお母さんはわたしのことを知っているのかという疑問が浮かぶ。
「ただいまー。誰か来てんの?」
沈黙を裂くように、制服姿の准の弟が帰宅した。
客人がいるとわかっているのに、母親に向かって部活用のボストンバックを投げつける。
「よろしく」
「秀!洗濯機に自分で入れなさいって言ってるでしょう!」
母親は文句を言いつつも、受け止めたボストンバックを隣に置いた。
「あれ、敦の姉ちゃんじゃん。今帰省してんの?」
秀の口からこぼれたのは、わたし自身の弟の名前だった。
そういうこと、だったのか。
学区が近いから仕方のないことなのだが、同い年の弟たちは同じ高校に進学した上に同じ部活に所属し、姉と兄の知らないところで親友と呼べるほど仲良くなっていた。
二人にとって今のわたしは、准の彼女ではなく、秀の友達の姉だった。
「おじゃましました」
「未花ちゃん?」
「もう帰んの?東京の話聞かせてよー」
呆然とする二人に背を向け、家の前の道路に飛び出す。
目の前を走行する軽トラックを追うように道を駆け抜ける。
初めて准の家族に会うことになった日と同じ、青い木々の匂いがして、熱いものが頬を伝った。
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