弟、時々恋、のち狼


仕事を思い出したラッラがパタパタと去って行くと、私たちは静かに顔を見合わせた。
鏡のように、お互いの顔を見て、自分の表情を知る。

穏やかで幸せな一時。


ふとすると、きな臭いこの時代の波に意識がさらわれそうになる。
ただ記録するだけなのに。
ただ見守るだけなのに。

人の心を知ってしまったロウの中には、記録が苦しみとして貯まっていく。
世を修正するべくわたしの中には、怒りが満ちてくる。


この瞬間だけを感じていられれば良いのに。


口にはできない思いが湧いてくる。
そんなこと、許されるはずもないのに。


人になりたい。


そんな、途方もないことを言ったロウの勇気を、今は、尊敬する。
そんな、すべてに逆らう、恐ろしいこと……。

わたしには、その思いきりはないようだ。


「では、戻りましょう」


そう声に出し、物思いをふりきる。
やはり思考の海に沈んでいたらしいロウが、はっとした様子で頷いた。

石の廊下が硬質な音をたてる。
謁見を待つ行列を思うと気が重い。

それでも。

この永い生の中、初めて、生きていると実感できる瞬間のために。

可愛い、我らの娘のために。


なんとか、この世界が生き延びることを、祈ってみよう。


我が身にかえても。


愛しい者の、幸せを--。

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