Distopia
序章
それは、歓喜。
歪んだ祝福。
恐怖のロンド。
絶望の、旋律。



どこをどう歩いてきたのかは、もう覚えていなかった。
あたりの風景など何も、一つと言って良いほど男の目には写っていなかった。
包み込むような、鬱蒼と繁る森の中。
キラキラ光る木漏れ日に、風は涼やかに通り過ぎる。
おそらくきっと普通の者ならば、澄んだ空気と深い緑の匂いに癒されていたに違いない。
だが、男はそうではなかった。
包み込む緑の風景に、見覚えなんてものは皆目無く。
そこに居た経緯も、どうしてそこだったのかも定かではなかった。
ただはっきりしていたのは、抑えがたい渇望。
むしろ、欲求と言う方が正しいのかもしれない。
胸の内を掻き毟りたくなるような、執拗に疼いているような感覚。
熱病に浮かされるように、強い酒にでも酔ったかのように。
朦朧と、あたかも自分の意思など無いように歩だけを進めて行く。
操り人形を彷彿とさせる足取りに、虚ろな視線。
どこも見ていないくせに、何かを必死で探していた。
尋常でない気配を振り撒きながら、荒い呼吸を繰り返す。
見る者があれば、間違いなく不審者として通報されていただろう。
が、幸か不幸かその場に男以外に他人は存在しない。
男は何かを求めるように、さ迷う。
「ー…」
何かを紡ぐが、それは言葉も意味もなさない。
汗ばむ額は、高揚の為。
腹の底から滲み出すような、感覚にも似た感情。
それが、世間で言う『非道』だとか『惨さ』だとか。
頭で解っても、心情的には解らなかった。
そう、全くと言って良いほど、わからなかった。
どうして、と自分に問うた事もある。
だが、返ってくるのは沈黙ばかり。
当然だ、問うのは男で、答えるのは答えを持ち合わせない男自身だったのだから。
つまりは最初から選択肢はおろか、思考の端にも存在しなかったという事だ。
解っていたのは…『渇き』。
激しく、惨いまでの凄絶な渇き。
それは、呼吸さえままならぬ程に、強く欲していた。
心が。
否。
魂とも言うべき『本能』が。
癒しを求めるならば、それしか知らない。
きっかけは何だったか。
それは遥か昔の事のようで、微塵も思い出せない。
不思議と理解していたというべきだろう。
心の深淵に眠る、男の得も謂われぬ飢えや渇きは、いっそ深層より深くからにじみ出るようだった。
どうするかなんて、体が知っていた。
理性も知性も、常識も倫理観も。
そのどれもが歯止めにはなり得ない。
他の何を用いてもその衝動を何もなさず抑える術など、知りもしないしありもしなかった。
唯一の方法は、衝動を衝動のままに受け入れ、行い、満たす事。
故に、ただ満たしてくれるはずの『獲物』を探す。
それはあたかも嗅覚の如く、いつでも的確に追った。
不思議と迷いはしない。
待ち合わせでもしていたかのように、男が欲しい時、欲しい獲物がそこにいた。
今日も、この先に。
早く早くと、内なる声が急かす。
甲高い女の金切り声のような耳障りなそれは、しかし、男には実に心地いいものだった。
もちろん実際に聞こえているわけではない。
だが、いつでも感じていた。
それこそ、呼吸をするたび軋むように。
だが、押さえ込むことが出来るうちは押さえ込んでいた。
自分が社会に適合していないことは知っていた。
だから。
罪悪感でもなんでもない、ただ理解すべき現実として、この渇きと我慢、そして対処法を受け入れていた。
ふと、その手の内に鈍く光る刃がある事に気づいた。
いつから持っていたんだろう。
手入れなんて忘れられて久しく、それは幾箇所も刃こぼれしていて切れ味など無いに等しいものだった。
しかし、その重量を用いれば、切れ味はなくともその重みで寸断出来る事も男は知っていた。
何故ならそれは、男が好んでずっと使い続けている物だからだ。
ああと、安堵にも似た吐息をこぼした。
不自然に足りなかったパーツを得た、そんな感覚が包む。
握り締める柄は、汗ばんだ手のひらにあたかも一体であると言わんばかりに馴染んだ。
不気味な鈍い光を宿す切っ先は、目には見えない牙を具現化したかのように禍々しい。
と。
今まで歩いていた山道がさっと拓けた。
一瞬目を焼かれたような錯覚を受けたが、それもすぐ消える。
光をやり過ごそうと細めた視界が次第に新たな景色を見出した。
風が渡り、そこは見晴らしの良い丘のようになっていた。
若草が地を覆い、小さな花が揺れる。
だが、そんなことはどうでも良かった。
重要なのは、その光の先。
見つけた。
声ではなく、唇が紡ぐ誰にも聞こえない禍々しい宣告。
シルエットもようやくという程にしか浮かばないというのに、それが探し求めた獲物であると、一瞬で理解した。
理解した刹那、男は手放した。
………最後の一欠けの理性を。
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