お前の鼻血を拭きたい
 泣き出した女の手を引いて、太陽の沈んだ街を歩く。

 軍服姿の二人だ。何かあったのかと、距離を取りながらも通行人が彼らの様子を見るが、エーレンフリートは気にせずに歩いた。こんな状態で、彼女を宿舎に送るわけにも行かず、彼は公園に向かって道を変えた。

 木々の葉が一枚もない冬の公園。夜を目前としたこの時間では既に人影はない。もうすぐ街灯も灯るだろう。

 街灯の明かりの届くベンチに彼女を座らせて、エーレンフリートはその左に腰を下ろした。この時のマーヤは、まだ泣いているだけだった。

 ガス灯に火を入れる男が通り過ぎ、魚の尾のような炎が閃き始め、辺りはすっかり闇に覆われた。

 周囲に人の目もなくなり、安心して泣き喚ける環境に連れて来られたことに気づいたのだろう。彼女の嗚咽に、罵倒が混じり始めた。「何でだよ」「バカヤロー」と呟く声がどんどん大きくなる。

「チクショー、ふざけんなぁ!」

 そしてマーヤは、大声でクダをまき始めた。

 彼女の叫びの言葉は、大体においてエーレンフリートの想像の通りだった。唯一想像を超えていたものといえば。

「どうして結婚って、三人じゃ出来ないのよぉ!」という悲痛なものだった。

 エーレンフリートは一瞬ぎょっとしたが、彼女の言わんとすることはすぐに理解する。

 マーヤは、ダニエルに恋をしていた──わけではなかった。クララに恋をしているわけでもなかった。二人とも好きでしょうがなかったのだ。正確に言えば、マーヤ自身を含めた三人で完成させた美しい三角形の距離を愛していた。

「ダニエルが結婚したっていいんだ、クララが結婚したっていいんだ……でも、でも何で、あの二人が結婚するんだぁ」

 自分の両膝を何度も拳で叩いて、マーヤが悔しそうに吠える。いっそ誰か他の人とそれぞれ結婚して欲しかったのだろう。そうすれば、三人の距離は親友という名で同じだったはずだ。

 しかし、ダニエルとクララが結婚したことで、二人の距離は夫婦という距離になった。そして同時に、マーヤは彼らと夫婦の関係になれない自分を思い知る。二人の距離が縮まり、その分少しだけマーヤは自分が遠くなった気がしているのだ。

 正三角形が、二等辺三角形になった。今日は、結婚式という形でそれを彼女は突きつけられたのである。

 これまで長いこと美しい三角形の中で生きてきたマーヤにとってそれは、身を切るよりつらいことだろう。あれほど瞳を輝かせて屈託なく笑っていた彼女が、二人のことでこれほど泣き喚くのだから。

 エーレンフリートは、コートのポケットからハンカチを取り出して彼女の膝に載せた。それ以上自分の膝を叩く前に、ハンカチに気がつけばいいと思った。

 マーヤは膝を叩くのをやめ、やけっぱちな動きで手袋のままハンカチを掴むと自分の顔に布を押し当てて「わーーーん!」とくぐもった嗚咽をあげる。ハンカチを掴んだせいで、代わりに不幸な帽子が地面に落ちたが、マーヤにそれを拾う心の余裕はなさそうだ。代わりにエーレンフリートが拾い、泥を叩いてから自分の膝の上に載せた。

 彼女がいま感じているものを、エーレンフリートはよく知っている。

 それに、「疎外感」という名前がついていることも。

「俺は……」

 橋の上で少しの話をして以来、彼はしばらくぶりに口を開いた。元々、おしゃべり好きな人間ではない。付き合う相手はかなり選ぶし、周囲からとっつきにくい男だと思われているのは、自分でもよく知っていたし、周囲が静かなことも心地よいと思っていた。

 そんな男が、

「俺は……お前たちが羨ましかった」

 疎外感を覚えるほど、彼らに憧れを抱いた。その現象を、エーレンフリートは自分の中で否定できなかった。

 最初に知り合ったのは、ダニエル。陽気で頑丈で、周囲の雑音など羽虫が飛んでいる程度にしか感じていなかった。士官学校の寮で同室になった初日から、明るい笑顔と握手でエーレンフリートと良い関係を築こうとしていた。愛想の良くない彼に臆することなく、しかし時々鋭いほどズバっと核心をついてくることがあった。

 一度友人になると、ダニエルは彼を引っ張りまわした。「本なんか後で読めるだろ! 外行こうぜ外!」と、子供のように彼を引っ張り出した。

 騒々しいのはあまり好きでは──「あれ、何とかフリートじゃん!」「ちょっと、マーヤ……エーレンフリートさんよ」「いいだろー、俺の友達だぜ?」──外の太陽がひどく眩しく感じた瞬間だった。

 その頃マーヤは、既に「炎の女」の称号を得ていた。周囲の男が彼女を女として馬鹿にしたり軽んじた発言をすれば容赦なく食って掛かり、男と殴り合って鼻血を出そうが主張を曲げることはなかった。「昔からああさ」とダニエルは、その度に上手にマーヤをいさめていた。クララはあわてて彼女の鼻血を拭き、そして小さな説教を始める。

 かといって、ダニエルが大人しいわけでもない。特に問題児のマーヤとのことでからかわれることが多かった。ひどい時にはダニエルも参戦して、二人ともあざだらけになって鼻血を出すので、クララは本当に大変そうだった。

 そんな三人の中に、エーレンフリートは入った。仲良く回る三つの星の、ひとつ外側の星として。ダニエルが鼻血を出したり病気でひっくりかえった時は、彼が面倒を見ることになっていき、女性二人もそれをある程度彼に任せるようになった。

 だが、エーレンフリートは三人の輪の中には完全には入れない。そのままずっと、入れないままだとどこかで思っていた。

 それを寂しいことだと思ったのは、自分でも不思議だった。そこで彼は、生まれて初めて自分の気持ちに気づいた。これまで覚えたことがない良い気持ちと、もうひとつの悪い気持ち。

「俺は……お前たちが羨ましかった」という言葉のすぐ後に、エーレンフリートは「けれど」と言葉を付け足した。

「けれど……俺は卑劣にもいま、少し喜んでいる」

 うっうっと、ハンカチを顔に押し当てて泣くマーヤの肩が、一瞬だけ止まる。言葉を紡ぎだすと、息を吐くだけとは違う少し大きい白い息の塊が、エーレンフリートの目の前に出来るが、すぐに夜風がさらっていく。

「壊れないと思っていたものが壊れた……やっと壊れた」

 彼は本当に卑劣にも、ここで笑ってしまった。自分の中にこんなどす黒い感情がわきあがるなんて、自覚するまで思ってもみなかった。

「やっと壊れた……マーヤ」

「あ……あんた……」

 ずびっとひとつ大きく鼻をすすり上げ、化粧の流れたひどい顔が上げられ、ようやく隣のエーレンフリートを見る。

 本当にひどい顔だった。

 魚尾灯に浮かび上がる顔色はとても白い。まるで死人のようだ。そして目の下のクマがひどい。あれほど濃い化粧をしていなければ、彼女が昨夜まったく眠れず、それどころか、しばらくまともに何も食べていないのが分かっただろう。事実、エーレンフリートもたったいまその事実を知った。

「俺は、お前たちの中に入れなかった。壊せなかった。だが、勝手に壊れてくれた。ああ良かったと俺は思った……これで俺が……入れるかもしれない」

 そんなひどい顔の女に向かって、エーレンフリートは自分の口元に笑みが浮かんでいるのを自覚する。何というひどい男だろうと自分でも思った。

「もう前と同じ三角には、戻れないだろうが……新しい形なら作れる」

 エーレンフリートは、膝の上の彼女の帽子を取り上げ、自分を見上げる彼女の頭の上に乗せた。ひさしの部分を少し前に傾ければ、彼女のひどいクマの辺りまで見えなくなる。

 そんな、彼女の茶の瞳が誰も映せなくなった後。

 エーレンフリートは。

 こう言った。

「俺を……四角形に……入れてくれ」

 これまで何度も喉から出掛かって言えなかった言葉。子供ではないのだ。遊びに入れてくれと話は違う。そうではない。そうではなくて、エーレンフリートは三人の関係に恋をし、そして同時に──マーヤに恋をしていた。

 彼女の他の二人に向けるあの屈託のない笑顔を、自分にも向けて欲しかった。彼女の鼻血を拭きたかった。

 だが、壊せなかった。あの三人からマーヤだけを引きずり出すことは出来なかったし、そうしたくはなかった。だから彼は、マーヤに恋を覚えてからずっと、こうして近くで待ち続けていた。いつか来る、もしかしたら来ないかもしれない今日のために。


「お前さー、もしかしてマーヤのこと……好きか?」

 一年くらい前にダニエルに、そう聞かれたことがあった。ダニエルが、クララとの結婚を考え始めていたころだ。そういうことには疎そうなダニエルのその一言に、一瞬エーレンフリートは驚いて、そして「そうだ」と答えた。

「クララがそうじゃないかって言ったんだよ……へぇ、そうかぁ」

 そしてダニエルが疎いという見立てはやはり間違いではなかった。確かに繊細で周囲のことをよく見ているクララならば、気づいてもおかしくはないだろうとエーレンフリートは思った。

「お前なら、いいや」と、ダニエルが笑ったので彼は腹が立って一発殴った。そう簡単なことなら、とっくにうまくやっている、と思いながら。

 あの時、右手でダニエルと手をつなぎ、左手でクララと手をつないで輪になって踊るマーヤの手はひとつも空いていなかった。

 いまは。

 このただ寒いばかりの公園のベンチに座るマーヤの手は、両手とも空いたまま。正確には右手にはエーレンフリートが差し出したハンカチが握られており、左手が空いている。彼の側の手だ。

 エーレンフリートは帽子を頭に乗せたまま動かないでいるマーヤのその手袋の左手を、自分のやはり手袋の手で握った。

 皮手袋越しの、体温さえ伝え合わない接触。まだ決して縮められきれない距離。それでも、エーレンフリートは彼女の手を握った。

 彼は壊れた三角形の隙間から、ついにもうひとつの角になるべく入り込んだ。それは四角形というには、まだあまりにいびつだった。昔の美しい三角形の片鱗などどこにもありはしない。学生が面積の計算で困るようなもの。

 それでも、エーレンフリートはその中に強引に入ることを決めた。これが最初で最後の好機だと思った。

 ぐしゃぐしゃの帽子を頭に乗せたまま、マーヤはその手を振り払わずに、ただベンチに座っていた。

 どんな理由であれ、何でもいいとエーレンフリートは思った。


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