躊躇いと戸惑いの中で


結婚をしたいのは、事実。
社員たちから、イカズゴケだというようなことで冷やかされているからじゃない。
これでも、はやいところ親に孫の顔を見せたいとも思っているんだ。

きっと、私が結婚したいと思っていた一番の理由は、両親。
自分どうこうよりも、親を安心させたかった。
だけど、恋愛するよりも面白くなってきた仕事に私は現を抜かし、それを理由にして恋することから遠ざかっていた。
結婚、結婚なんて、口先だけの言葉を口実に、心を振り回される恋を遠ざけていたんだ。

気持ちを振り回されるのは、正直しんどい。
この年で、あたふたと相手や自分の気持ちに振り回されるくらいなら、仕事で徹夜しているほうがよっぽど楽だ。
精神的な辛さよりも、肉体的な辛さに耐えるほうがずっといい。

だけど、精神的な辛さの裏には、それ以上の楽しくて嬉しくて、幸せな感情があることを思い出した。
とんとご無沙汰の恋愛感情だったけれど、乾君とこうして並んで歩いていると、そんな幸せな気持ちが少しずつ私の心を刺激していった。
これが、人に想われるっていうことなんだよね。

「あ……」

隣を歩いていた乾君が、小さく声を漏らす。
それと同時に彼の手が私の手を握り、駆け出した。

突然の行動に驚いていると、乾君が空いたほうの手を高く上げる。
その手を目指して、空車のタクシーが滑り込んできた。

ドアが開くと、どうぞと彼が私を促す。
促されるままに乗り込むと、続いて乾君も乗り込んだ。

彼の口から運転手へ告げられたのは、私の家がある最寄り駅だった。

「タクシー捕まえられてよかったですね」

鞄を膝の上で抱えていると、乾君が言う。

「うん。よく気がついたね」
「視力、良いほうなんで」

そんなよく見える目で、彼は私のことを見る。
その目で見られると、何故だか心の中まで見られている気がして、気恥ずかしさが押し寄せた。

ねぇ、乾君。
君は、私のなにを見て好きになってくれたのかな?
その目は、私のどんなところを見てくれているの?

訊ねる思考が、夕凪のように心を穏やかにさせていった。



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