躊躇いと戸惑いの中で


「河野さんに、渡したくない」

至近距離で、瞳を覗き込まれるようにして伝えられた言葉に、少しずつ心臓が騒ぎ出し始めた。
さっきの靄のかかったような空気の正体が、明らかになっていく。
少しずつ迫ってくる乾君に、自然と背後にあるシンクへ後ろ手に寄りかかるようになった。

「い、乾君?」

訊ねようとしたけれど、掠れてうまく声にならない。
そのうちに、乾君の両手が私の頬へと触れ、恍惚とした彼の顔が近づいてくる。

ああ、そうだよね。
河野に拘ってきたのは、こういうことなんだよね。
渡したくないなんて、そのまんまのことだよね。

河野の時といい、今といい。
甘い恋の空気に触れたのが久しぶりすぎて、少し鈍感になっていた。
乾君のあの表情は、こんなことになるのを予期していたよね。

「碓氷さんがいるから、僕は今ここに居るんです」

甘味な誘惑で、乾君がそう言う。

そのまま近づく唇を避けることもできず、触れた温かさに僅かな驚きを感じながらも、甘い感情が伝わってくるのを否応なく感じていた。

河野の荒々しく奪うようなキスとは違い。
乾君は、まるで壊れ物でも扱うみたいに私の唇を塞いだ。
丁寧に優しく、気持ちを流し込むように触れるキス。
ゆっくりと離れていくのが、惜しくなるほどだった。

乾君の瞳を間近で見つめながら、問うように覗き込んだ。
冷静な思考が、どういう気持ちでキスをしたのかを考え、問いかける。

気まぐれ?
河野のように、魔が刺したの?
年上に感じる若気の至り?
それとも、本気?


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