きみと駆けるアイディールワールド―赤呪の章、セーブポイントから―
 静世は微笑んだ。甘い声の奥に冷たい毒を秘めて。
「中庭へ出入りするのは、風坂さんのほかには、外部委託の庭師だけ。でも、今日の昼間には、彼らは来校していないわ」
 だから、あたしがやったっていうの? ふざけないでよ。
 あたしは右手の親指を噛んだ。痛い。
 言葉、出てきてよ。
 悔しい。あたしの能力は、極端に偏ってるから、頭と心がいっぱいになると、あたしの中から言葉が消える。
 面と向かって人と話すことは、こんなふうだから苦手。
 あたしは無理やり声を絞り出した。口調が震えて仕方ない。
「……ば、バカバカしい。あ、あたしは、ずっと……こ、黒曜館の、北塔にいた……監視カメラ、見れば、わ、わかるわ……」
 あたしは万知と静世に背を向けて歩き出した。散らばった花びらを踏まないように、うつむいて歩く。ただ歩く。
 背中に、万知の声が飛んできた。
「風坂にとって、バラの首を切るのは『悪』なのかな?」
 悪? あたしは振り返る。万知は、ハスキーな声を生き生きと弾ませて、議論をふっかけてきた。
「人間っていうものは、本質として、必ず悪を抱えている。風坂は、そう思わない?」
 あたしは、ため息を吐き出した。三つ、数える。
 一、二、三。
 舌が動くことを確かめる。声を、喉に通す。
「……あんたが言う、悪って、なによ?」
「狂気、欲望、衝動。そういう後ろ暗いモノのことだよ。誰もが持つ本質だよね? 人間は、悪を発現し認識してこそ、人間だ」
「哲学? それとも、犯罪心理学?」
「両方ともおもしろそうだね。考えてみるよ。それと、風坂、きみの反応はやっぱりいいね。かわいらしい」
 バカにされてる気がする。言い返してやりたい。でも、言葉が出てこない。
 あたしは黙って正面を向いて、また歩き出した。万知と静世が立ち去る気配を背中に感じた。黒曜館は無人になった。
 花のない垣根の間を進む。枝の切り口から染み出した樹液が青臭く匂う。
 あたしはいつの間にか、右手の親指に噛みついていた。どうしても直らない癖。親指の爪は、白く削れて薄くなってる。
 どうしてなんだろう? どうして、バラは切り落とされたの? バラが無抵抗だから、切り落としたの?
 別の可能性が、不意に、あたしの頭に浮かんだ。
 毎日必ず中庭を利用する人物への攻撃? つまり、あたしへの?
 ううん、その可能性も、低い。だって、あたしは、誰とも接点がない。
 たぶん、あたしの存在は、ほとんどの生徒に知られていない。あたしは黒曜館に住む幽霊みたいなものだ。
 バラの垣根の途切れ目からツバキの木が見えた。濃い色をした厚手の葉っぱが太陽の光を反射している。
 ツバキの木の奥、真珠館の窓に、人影があった。万知だ。目が合った。万知は、にっと笑った。
 万知の肩の向こうに静世がいた。静世はこっちに気付かなかった。あたしは、なんとなく慌てて、垣根の陰に引っ込んだ。
 あそこが、静世の教科資料室?
 もう一回、そっと様子をうかがう。窓にカーテンが引かれていた。部屋の中の様子は見えない。
 そういえば、万知と静世の匂い、同じだった。同じコロンの匂いだった。
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