晴れ時々毒舌裏バージョン
テレビのない頃

高校を卒業して僕は、本当はある映画の専門学校に通ってました。そこは当時巨匠と呼ばれた監督が作った専門学校で、四割から五割は落ちると言う専門学校としては難関でした。


ここの試験の時の事をよく覚えてますが、カット割りの順番とか出ましたね。他にもそういう専門的な事が出て論文でした。


カット割りの順番とかなんて田舎の高校生が知るかよです。


そういう専門的な事には答案用紙に細々とそういうのは、これから勉強すれば良いしそういうのに囚われ過ぎはどうなのかとか書きました。


そういうのに囚われ過ぎては新しい映画は撮れない等と書きましたね。生意気ですね笑



当時の僕は映画は好きだし、作りたい出来たらシナリオと監督でね。


そこで某芥川賞作家と話しました。当時は田舎から出てきてるのをお互いに隠しながら話しました。


頭の良い人だなと思ったけどお互いに同い年ですから田舎から出てきてる同士で何かシンパシーを感じたんでしょうね。



その後に巨匠との面接です。因みに僕は巨匠の映画は1つしか見てなくてそれほど良いと思ってなかったです。


リアリズムを積み重ねて行くタイプで今でもそれほど好きではない。



そこで、当時の革命的日本人監督の森田芳光の事を延々と話したと思います。そして巨匠の作品はピンと来ないと言いました。生意気です汗



何故か通りましたが、考えたら東京だしなあ早く働きたいなで、行くのをやめました。


行ってたら監督にはなれなくても文化的交流は出来ただろうなと思います。


もう1つは兄が同じような映像の専門学校に行ってたから親に負担かなともあったんですよ。


しかし、当時の父はだんだん景気の良くなってた頃で気にしてなかったようです。


だんだん景気の良くなる前を知ってたので果たして僕がそういう所に行くのはどうかな?でしたね。


それで、福岡の工場に勤める事になりました。


寮に入って色々作りました流れ作業ですよ。


特に何かの部品を組み立ててるんだなくらいです。


カメラとか大きな物では電気の何かを組み立ててましたが、やりゃいいんだろうでしたね笑


やればお金をくれるんだろうですよ。仕事はやりましたが全くやりがいは感じなくてね。


しかし、バブルの弾ける直前に寮を作ってて八畳弱かなに一人です。綺麗でしたし風呂も共同ですが大きくて綺麗でね。


他の工場の連中も居て多分百人は軽く越えてたと思います。



朝と夜のご飯も美味しくてね。しかしテレビが駄目なのと煙草が部屋では駄目でした。


煙草は、まだ未成年だから分かるけど何故かテレビも駄目でした。


煙草は隠れて吸ってたけど、19の僕には全くテレビがないのは参りましたね。


ラジオをテレビの音声チャンネルに合わせて聞いてました。中には小型の液晶テレビを持ち込んでるやつもいましたね。

< 110 / 477 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop