さくら駆ける夏

検査結果

「ありゃ? またいない」
 おじいちゃんの病室に足を踏み入れた私は、思わずつぶやいた。
「検査がまだ終わってないのかな。とりあえず、座らせてもらって、待ってみよっか」
 後から入ってきた涼君はそう言うと、丸椅子に腰を下ろした。
 私も続いて、そばにある椅子に腰を下ろす。
 でも、そのとき……。

「きゃーーー!」
 思わず声が出た。
 お尻が冷たい!
「どうしたの?!」
 涼君が心配して、立ち上がってくれた。
「この椅子に何か付いてる? 座ったら冷たくて」
 うう……何なんだぁ~。
 涼君は注意深く、私が座ったばかりの椅子を観察して言った。
「うわ! ここ濡れてるよ!」
「ええ~! それじゃ、私のスカートも?」
 不快感がすごかったから、きっと濡れてるとは思ったけど、涼君に一応確認してもらった。
「ああ、たしかに濡れちゃってるね。これは困ったね、どうしよう……。そっちの台の上に飲みかけのジュースの紙パックがあることから推理すると、きっとそのジュースだね。ここにこぼれてるのは」
 ジュースこぼしたなら、拭いといてよ、おじいちゃん!
 ハンカチで一所懸命、スカートの濡れた部分を拭いた私だけど、不快感は全然消えなかった。
 それにしても、私も座る前に気づけよ!
 心の中で、自分に突っ込んだ。
 こんなことにも気づかないような人が、キーホルダーに掘り込まれた文字に、何年かかっても気づくはずがないよね。
 我ながら、つくづく情けない話だけど……。

「ヒサさんは、ティッシュをここに持ってきてるの?」
 涼君が、ハンカチで椅子を拭いてくれながら言った。
 しかし、こぼれてるジュースの量が多く、すでにハンカチはぐしょ濡れのようだ。
「どこかにあるはず。ちょっと待ってね」
 スカートを拭くのに必死で、椅子を拭くことをすっかり忘れてた……。
 涼君に任せっぱなしで、ハンカチまで使わせて……何て自己中心的なんだろう、私って。
 ちょっと自己嫌悪……。

 あまり凹んでいてもしょうがないので、気を取り直し、ベッド脇にある小さな机の引き出しを一つずつ開けて、私はティッシュを探し始めた。



 二段目の引き出しに、ティッシュの箱があるのをようやく見つけて、ホッとする。
 ティッシュぐらい、すぐ使えるように出しておけばいいのに。
 私はすぐに箱を取り出して、ベッドに置くと、二、三枚掴み取って、椅子を拭いた。
 涼君も手伝ってくれる。
 どうにか、椅子にこぼれた分は、きれいに拭き取れたけど……。
 問題は、私のスカートだった。
 着替えなんて持ってきてないし……ほんと困ったなぁ。
「仕方ないし、このまま我慢するね……。なるべく目立たないように、帰りは私の後ろを歩いてくれるよう、お願いしてもいい?」
 想像するだけで、なんと惨めな……。
 仕方ないかぁ。
 心優しい涼君は、二つ返事で了解してくれた。
「それから……ハンカチを使わせちゃって、ごめんね。私ってば、自分のスカートばっかり気にして……」
「気にしないでね。俺が、自分で勝手にやったことだし」
 どこまでも優しい涼君。
 ダメだ……ますます好きになる。

 おっとと、顔を赤らめてじっとしているとバレちゃいそう。
 私はとりあえず小さな机に近づくと、開けっ放しにしていた二段目の引き出しをおもむろに閉めようとした。
 でも―――。

 中に入っているメモ帳が気になって、引き出しを閉める手が途中で止まる。
 何の変哲もないメモ帳ではあったけど、私の目を引いたのは、おじいちゃんの筆跡で書かれた文字だった。
 メモ帳の表紙に「H.N. ファウンテン」と書かれている。
 ファウンテンという言葉を、いつか誰かが言っていたような気がするので気になったのだった。
 その下には「0038758946」という数字が書いてある。
 何の数字だろう。

「どうかした?」
 涼君が固まっている私を見て、不思議そうな表情で聞いてきた。
「あぁ、うん……えっとね……。ここにおじいちゃんのメモ帳が入ってるんだけどね」
「うんうん」
「ほら、ここ。見てみて。ファウンテンって書いてあるでしょ」
 涼君も私と同じように、引き出しの中のメモ帳を覗き込んだ。
「たしか、一髪屋さんがそんなことを口走っていたよね。結局、何のことかは聞けなかったけど」
 涼君が言う。
 そっか、一髪屋さんが言ってたんだっけ。
 そのとき、背後のドアが開いて、おじいちゃんが入ってきた。

「おお! 待たせてしまったか? ちょっとお手洗いへ行ってたんじゃ」
「おじいちゃん! ここ、何こぼしてたの?!」
 つい、きつい口調で言ってしまった。
「え? 何かこぼれてたか?」
 のん気な調子で、聞き返すおじいちゃん。
「こぼれてたよ~! この椅子にね。水かジュースか、知らないけど」
「ああ、そう言や、さっき新垣とここで将棋を指してたんじゃが、あいつがジュースを飲んでたはずじゃ。こぼしてるとは思わなかったな。それで、知らずにそこに座ってしまったのか?」
 おじいちゃんがようやく、少し心配そうな表情になった。
「ばっちり、濡れたよ……。ほら」
 私はいったん立ち上がって、スカートの濡れたところをおじいちゃんに見せた。
「おお、すまんすまん!」
 おじいちゃんの話によると、非があるのは新垣って人らしいので、私はもうおじいちゃんを責めるのはやめた。
 涼君の手前もあるし。
「と、とりあえず、座れや」
 そう言っておじいちゃんが座ったので、涼君と私も腰を下ろす。
 座った瞬間、私はまた強烈な不快感に襲われたけど……。
 気を取り直して、私は話題を変えた。
 最も気になっていたほうへ。

「それで……。どうだったの? 検査結果」
「ああ、ばっちりだ! ついにやったぞ~!」
 おじいちゃんは大げさなガッツポーズをとっている。
「よかったね! おめでとう!」
 ガッツポーズはしないけど、私も嬉しかった。
「よかったですね!」
 涼君もうれしそうだ。

「明日は日曜だから、退院はあさっての朝ってことになるな! よーし、何とか花火大会に間に合ったぞ~!!」
 そう言えば、花火大会はあさってだったっけ。
「花火大会に間に合うかどうかを気にしてたの?」
「当たり前じゃないか、夏の風物詩じゃろ」
 まぁ、たしかにそうかも。
「涼君は行くんか? 行くなら、さくらとわしと一緒に三人でどうじゃ?」
 すごく気になっていたことを、おじいちゃんが尋ねてくれた。
 心の中でおじいちゃんに感謝。

「花火大会は木曜にもありますよね。そちらのほうは友達と行く約束をしているんですが、月曜のは考えてなかったので、よろしければ、ご一緒させていただけますか?」
「もちろんじゃ。楽しみじゃな」
 にこにこして私を見るおじいちゃん。
 よっぽど楽しみなんだなぁ。
 でも……正直、私も楽しみ。
 涼君と一緒に行ける!

「うん、私も楽しみ。でも、おじいちゃん……。はしゃぎすぎて怪我とかしないでよ。また病院に逆戻りとかなっちゃったら、シャレにならないし」
「分かってるって!」
「ですね、気をつけてくださいよ」
 涼君も同調してくれた。

「うんうん、気をつけるって。おや? 引き出しが開いたままじゃったか」
 ふと、引き出しを見て言うおじいちゃん。
 おじいちゃんがそれを閉めようとしたのを見て、私が聞いてみた。
「そうだ、おじいちゃんに聞きたいことがあって。そこのメモ帳の表紙に書いてある『 H.N. ファウンテン』って、どういう意味?」
「ああ、これか」
 おじいちゃんが、メモ帳を手にとって答える。
「H.N.は、ハンドルネームってことじゃ。ファウンテンっていうのが、わしのハンドルネームでな。忘れないように、ここに書いておいたわけじゃ。中身は見てないのか? だいたい、次のネット対局の予定日時や、わしが負けた対局の棋譜を記録してあるんじゃよ。このネット対局が出来るサイトでの、わしのハンドルネームがこれなんじゃよ。ちなみにその下の数字は、ログイン用パスワードじゃ。忘れんようにメモしておいたわけ」

 そうか、おじいちゃんはネットで対局することもあるんだっけ。
 ファウンテン……山を英語で言うと確かそうだったかな。
 それにしても、こんなところに堂々とパスワードまで書いていたら、かなり無用心な気がするけど。
 おじいちゃんの性格を考えると、仕方ないか。

「ファウンテンは、噴水という意味ですよね」
「あれ? 山じゃないの?」
 涼君の言葉に思わず聞いてしまった。
「山はマウンテンだね」
「ああー」
 は、恥ずかしい……!

「えっと、ネット対局かぁ……。そ、それじゃ、私もまたネットで対局してみようかな」
 話をそらそうとして、私は言った。
「ネットでもリアルでもいいが、今度さくらも対局しよう! 涼君は、ルールは知ってるのかな?」
「いえ、俺はルールもまだ知りません」
「それなら、わしとさくらが今度みっちり教えるから、心配いらないぞ!」
 おじいちゃんはノリノリだ。
「はい、よろしく」
 涼君も明るい笑顔で答えた。



 そしてしばらく雑談した後、私たちは帰ることにした。
 特に急ぎの用事もなかったけれど、おじいちゃんの交流の邪魔になるのが嫌だったから。
 おじいちゃんはたった数日で、この病院内でもたくさんの友人を作ったらしい。
 もうすぐ退院なので、今は貴重な時間なのかなと思う。
 退院するとやっぱり、ここで作った友達とは、なかなか会えなくなるもんね。
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