碧い人魚の海

 23 歌と名づけ

23 歌と名づけ


 執事が貴婦人の部屋をノックしたのは、歌を聴かせてちょうだいと貴婦人に言われて、ルビーが歌っているときだった。
「続けなさい」
 執事がドアを開けて入ってきても、ルビーは歌い続けるように言われた。

 歌は、遠い北の海で、ルビーが小さかった頃、歌の好きな人魚が歌って聴かせてくれたものだった。古い感じのする哀切を帯びたメロディーで、歌詞は今の言葉ではない古い言葉だったから、歌うルビーすらも意味のわからないフレーズがたくさんあった。

 ルビーは普段から、そんなに歌う人魚ではなかったが、よく歌う仲間から、一つだけ忠告を受けていた。

「水の中でもよく通る人魚の声は、海の表に出てから思い切り張り上げると、周りの生き物の意識を切り裂くことがあるから加減しなさい。特に歌を歌うときは、声が響き過ぎないように、小さな声で歌うのよ。海鳥が声に驚いて、波の間に落ちてしまっては可哀想でしょう?」

 けれどもいまは、声の加減をする必要はなかった。
 なぜなら、左足のアンクレットがまた熱を持ち、ルビーの声が大きくなるのを阻んだからだ。といって、今回は痛みのようなものはなかった。

 ルビーが歌うことを思いついたのは、「人魚は、ほかに何かできることはないの?」と問われたためだ。
「わたくしと寝所をともにするつもりがないのなら、別の何かで楽しませてくれることができなくてはね」
 貴婦人はそう無茶振りしてきたのだった。

 ルビーは見世物小屋から来たのに何もできない。軽業もできなければ犬を操って芸をさせることもできないし、変な乗り物を乗りこなすこともできない。
 できません、というのは簡単だった。でも、できないといって貴婦人が許してくれるような気もしなかった。懸命にルビーはいまの自分でもできることが何かないかを頭の中で探し、そして、歌うことを思いついたのだった。

 自分の歌声を聞きながらルビーは、懐かしい北の果ての海の底を思い出していた。
 耳で覚えた歌詞は、特に集中しなくても口元からこぼれ出た。歌いながらルビーはかつてこの歌を聴かせてくれた歌声の主の姿を思い描こうと記憶を探っていた。

 この歌を歌っていたのは、どのお姉さまだったかしら? 
 透き通る水の揺らめきの中を泳ぐ、さまざまな仲間の姿をルビーは思い浮かべた。
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