碧い人魚の海
 後ろに整列していた年若い憲兵が思わず口を開きかけ、黒髭男にジロリと睨まれて、慌てて居住いを正した。
「失礼ですが、どなたをお泊めでしょうか、奥さま」

「見世物小屋の──」
 おもむろに貴婦人が口を開いたその瞬間、兵の間にびりりと緊張が走った。
「──ブランコ師のアルトゥーロ・ロガール氏が滞在中ですの」
 先刻、一同の間を走りぬけた緊張は、貴婦人の次の言葉で途端に緩んだ。
 先ほど口を開きかけた年若い憲兵が、再び口を開いた。
「では、アルトゥーロ・ロガールはシロですね」
「余計なことは言わんでいい」
 黒髭男は、振り返って部下を怒鳴ったのち、貴婦人に向き直る。

「屋敷の人たちすべてに、我々の目の前に集まるようにおっしゃっていただけますか? それから念のため、屋敷の中を一通り見せていただきたい。……ロガール氏にも、少々お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「何がありましたの?」
「説明はのちほど。まずは我々の捜査にご協力をお願いします」
 腰は低かったが、有無を言わさぬ口調だった。

 使用人はすべて1階のロビーに集められ、その間に憲兵たちは隊長に号令をかけられ、幾班かに分かれて屋敷に散っていった。
「あの、隊長さん……」
 ホールに立って部下の背中を見送る髭男に、貴婦人は声をかけた。
「屋敷には開かずの間が多くあります。もう何年も鍵をかけたまま、使われていない使用人部屋ですとか。亡くなった夫の書斎ですとか。もし必要でしたら、執事に鍵を持たせて案内させましょう」

「はい、ああ、いえ……」
 髭男は少し迷っているようだった。
「われわれとしては、本当は奥さまを疑っているわけではないのです。ですが、見世物小屋の座長が、ハロルド・レヴィンとハマースタインの奥さまに交流があったから、調べてくれと申してきておりまして……」
 貴婦人は首を傾げた。
「ハロルド・レヴィンがどうかして?」
「逃亡しました」
「まあ……」
 貴婦人は目を丸くする。
「外部に手引きしたものがいるはずです。やつの最近の交友関係から洗っているところでして……」

 カチャリと2階の階段わきのドアが開く音がしたため、髭男は話を中断した。
 ブランコ乗りだった。先ほど貴婦人が姿を現したのと同じドアから出てきて、ゆっくりと階段を下りてくる。
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