I.K
 忘れていた記憶が浮上するのはありふれた些細な出来事かもしれない、と手にしたマフラーを見つめカヤは思った。三日後に結婚式を控え緊張と不安と幸福の三重奏が入り混じる中、実家で古い荷物を整理していたときに、すっかり色褪せてしてまったネイビーのマフラーと封をしたまま開封されることのなかった手紙が出てきた。小箱にそれらは入っていた。
 カヤはマフラーを握りしめ、過去に想いを馳せるように当時の記憶が甦りつつあどけなさの残る自分が脳裏をよぎり、
ふっと笑った。それでも、
「君は何をしているのかな」
 彼女は言葉を漏らした。
 そして、過去に引き戻すのをやめさせようと携帯の着信音が室内に鳴り響き、カヤは着信表示を見た。
 マサヨシだ。
 これから生涯を共に生きていく男。
 カヤは通話ボタンを押した。
「お疲れい。久しぶりの実家を満喫してる?」
 マサヨシの明るい口調が受話口から聞こえた。お互い今年で二十七歳。マサヨシとは同じ職場で出会った。カヤはWebデザイナー、マサヨシは営業という職種は違えどお互いの欠点を補う形で業務でも私生活でも波長があった。彼は読書が好きで、もちろんカヤも読書が好きだ。男の人はミステリー小説が好きという印象と思い込みがあったカヤにとって、マサヨシは、「俺、ファンタジーが好きなんだよね」と歯並びの良い笑顔を見せながらいった。一瞬、そこでドキッとなったのだが、彼女はおくびにも出さず、「意外だね」とそっけない態度をとった記憶がある。マサヨシ曰く、カヤのそっけない一文に恋の闘争本能が刺激されたらしく、「必ず、カヤを落とす」と心に誓ったらしい。熱意と情熱と志というのは怖くもあり神秘的なものがある、とカヤは感じた。
「満喫してるよ。新居に持っていく荷物を整理してたら、懐かしいものがたくさん出てきて」
 カヤは手に持ったネイビーのマフラーを慌てて小箱に詰める。別に後ろめたいことはないのに、そうしなければいけない何か、がそこにはあった。
「昔の男の品とか出てきたんじゃないの?」
 マサヨシは今の状況を監視カメラかなんかで、もしくはNASAの特出した技術を使用しているのだろうか、とカヤの心をざわつかせた。
「あのね、女っていうのは男と違って引きずりません。そんな品はないから安心して」
「ほお。カヤから安心という一言がでるなんて珍しいね。不安定の中にこそ安定と安心が潜んでる、その言葉を信条としていたのに」
「『I.K(アイケー)の作品からの引用よ」
『I.K』とはコアなファンの間でブレイクしているファンタジー作家である。素性は知れず、性別もわからない。謎の作家である。マサヨシとカヤは、『I.K』のファンである。マサヨシ曰く、「現実なのか非現実なのかわからなくなる。まるでメビウスの輪みたいに」とワインを飲み口元から赤い染みが垂れ、ワイシャツを汚しながら語っていたのが印象的だ。その曖昧さが中毒性を呼び起こさせる。
「それで思い出した」マサヨシは声を張り上げ、「『I.K』の新作が出るらしい。上下巻。それも三日後だぜ。俺らの結婚式」と嬉しそうに言った。
「突然の告知だね」
「出版不況だからさ」
「意外性かな」カヤは小箱に詰め込んだネイビーのマフラーを見つめた。
「人間は不意に弱いからな。とりあえず、俺は寂しいんだから」
「素直だね」
「素直が一番だろ。これでも結構照れながら言ってるんだけど。まあ、実家でゆっくり」
「伝わったよ。ゆっくりさせてもらう。じゃあね」
 電話が切れた。プープーと終わりなのか始まりを告げる音が手に持つマフラーに絡みついているような気がした。
 カヤはネイビーのマフラーを首に巻きつけてみた。首回りがチクチクとした。
 しかし、それは紛れもないあたたかみを持った、マフラーだった。

 
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