手の届く距離
とにかくこの場を離れようともう一度頭を下げようとしたところ、肩に手を置かれる。

手の主はキッチンにお願いした、まだ1ヶ月前に着任したばかりの副店長。

「失礼致します。副店長の広瀬と申します」

4人組との間に広瀬さんが立ちはだかる。

彼がちゃんと対応してくれるか心配だが、着任してからの時間は関係なく、今は最高責任者。

「当店スタッフの不手際で水をこぼしてしまったようで、申し訳ありませんでした。重ねてお詫び申し上げます。料理が食べられなくなったこと、お洋服を濡らしてしまったという状況でよろしいでしょうか」

「この服気に入ってたんだから。弁償してよぉ」

「見りゃわかるだろう、店長出せよ」

頭を下げる広瀬さんの肩を男の一人が強く押す。

客の男と比べるとひょろりと細い身体は簡単によろめくが、すぐに足をそろえ、もう一度頭を下げる。

「申し訳ありません。副店長という肩書きですが、今は店長不在時の責任権限を持っておりますので、私が承ります。ご了承ください。すぐにお席を整えさせていただきます。お食事も新しくご用意いたします。ご希望でしたらお洋服はクリーニング代をご用意させていただきます」

店として出来る最大限の謝罪と対応を示す。

「食事代もそっち持ちだろう?」

「服代は?」

付け上がる客は要求を増やす。

クリーニング代も何も、こぼしたのは水だ。

しかも、食事に水をかけたのは客のほうなのに。

「申し訳ありません。食事代はご気分を害されたということで、結構です。お洋服に関しては現状復帰まででご了承ください」

広瀬さんは交渉の打ち止め点を見せる。

「そもそもはその女の子が悪いんだろう!誠意が足りないんじゃないか」

「こんな程度の低い店だったかなぁ」

口々にすごむ客に、広瀬さんはひたすら頭を下げる。

「大変恐縮ではございますが、これ以上のことは出来かねます。あまり大きな声を出されるようでしたら、どうぞお引取りください」

震えている新人の濡れた背中を撫でながら店を出ることを促す広瀬さんの対応を意外に思う。

「てめぇ、そっちが悪いのに、帰れってのか!」

強気な客に広瀬さんは折っていた身体の角度を戻す。

「失礼ですが、貴殿は当スタッフへ水をかけられました。その行為は暴行と捉えられますので、必要であれば警察を呼ばせていただきます。お客様へのサービスはさせていただきますが、当店はスタッフを大事にしております。害をなすものからは全力で店員を守らせていただきます。ご了承ください」

凛とした声と、おそらく警察を呼ぶと言い出したことで客も驚いたのか、ぶつぶつ文句を言いながら席に戻る。

それでも、水をかけたことへの謝罪はなく、自分たちは被害者であると訴え続けた。

ようやく場が収まってきたことで店が動き出す。

「頑張ってくれてありがとう、北村君。さ、二人とも着替えてきて」

副店長がそっと落とした一言で、ほっと息をこぼす。

駆けつけた他のスタッフにテーブルを任せ、私と新人はスタッフルームに戻る。

広瀬さんはもう一度、問題の客に謝罪をしてから、他のテーブルにも、騒ぎの謝罪に回った。

凛々しい姿とクレーム客への対応は、私の中の頼りない広瀬さんの印象を払拭させたどころか、一気に評価が上がった。

これが、広瀬さんを好きになるきっかけだった。

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