音の生まれる場所
「三浦さん、コーヒーどうぞ」

ようやく沸いたポットの湯でコーヒーを入れる頃には、部内の清掃は殆ど済んでいる。
編集者のデスクの上には、原稿や資料が山積みのまま置いてあるから手出しができないし、ゴミ箱のゴミを集めて床を掃き、FAXを分類する程度のことなら、十五分もあればできてしまう。

「おっ、サンキュー」

デスクの右側に置いたカップに手を伸ばしながら、三浦さんは原稿を読んでいた。
その中には長年遠ざけてきたものの写真が載っていて、一瞬ギクリとさせられた。

「あの…その記事はどういった内容なんですか?」

聞いた後になって(しまった…)と思った。
三浦さんは斜め後ろに立っていた私に目を向け答えた。

「これはトランペットを作っている職人さんの元で働く、見習いの人について書いたものだよ」

一枚目の見出しのすぐ横に、真剣な表情で、金属楽器に向かう男性の写真が載っていた。
記事のタイトルは『音の生まれる場所』

「このタイトル…三浦さんが考えられたんですか?」

聞かなくてもいいことを聞いてしまう。

「そうだよ。記事に興味があるなら読んでみたらいい」
「いえ、別にそういう訳では…」

差し出された紙を前に躊躇した。
引っ込めようとしない三浦さんの手前、仕様がなく手に取る。
コーヒーを乗せてきたトレイを小脇に抱え、原稿の文字を目で追った。

“県内のトランペット職人の元で修行をしている坂本理(さかもと おさむ)さん、二十七歳。
中学の頃から部活でトランペットを吹いていた彼は、音大卒業後、
「自分で納得のいく音が出せる楽器を作り出したい」と、楽器職人の道を選んだ。

「最初は見ることも聞くことも、全て初めてのことばかりで、如何に自分が何も考えずに吹いてきたかを、痛感させられる毎日でした」

今でも地元の楽団に所属し、トランペットを吹いている彼だが、楽器を奏でる側から作り出す側になり、音に対する考え方が少しずつ変化してきたそうだ。

「長いこと音は奏でるものだと思ってきましたが、楽器を作り始めてからは、言葉と同じ、語るものなんだと思うようになりました」

自分の思いが自由に表現できるような楽器を作り出せたら…そんな思いを持ち続けて五年。
今でも満足のいく楽器は作り出せていないけれど、決して諦めたくないと語る。

「いつか自分が吹いて納得のいくものを作り出し、そして先では世界のトランペッターが語りたくなるような楽器を作りたいと思っています」

程遠い夢です…と屈託なく笑う表情とは正反対の、固くて強い意志が、今日も彼を音の世界へと誘う。
一人前のトランペット職人への道は果てしなく険しいけれど、いつか彼の作ったトランペットが、世界の檜舞台で音を響き渡らせる日が来ることを心待ちにしておきたい…”


(中学からトランペット……朔と同じだ…)

亡くなった人を思い出しながら読んだ。
三浦さんはこれまで原稿に興味を持ったことのない私が珍しく聞いてきたからか、こんな質問をした。

「小沢さんは音楽を何かしてたの?」

ハッと我に返り、首を横に振る。

「いいえ、何も。…ただ、どんな内容か気になっただけです。三浦さんがあまり熱心に読まれていたから…」

原稿を返し、その場を去った。
給湯室に向かう頭の中で、さっきの記事の一文が思い浮かんだ。

『音は…言葉と同じ語るもの…』

深い意味を持つその言葉は、波紋のように心の中に広がっていった…。


家に帰り、窓辺に置いてあるマウスピースを見る。
この金属が音を奏でなくなって七年近く、私はずっと忘れられないでいる。
毎朝、磨くのも習慣になり、それをする事でいつの間にか朔に縛られている。

ホントはもう忘れなきゃいけない…と思っているのに、いつまでもズルズルと引きずってるのは、心の何処かで、朔から別れの言葉を聞くまでは、自分から手を離してはいけないという錯覚に陥ってるからだ…。


「…何か言ってよ…」

要求しても返ってくる訳がない。
朔は…もう…この世にはいない存在だからーーー。

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