恋するバンコク
 高志がロビーに戻ってきたのは、二時間後のことだった。瞳は部屋にいるのか、姿は見当たらない。荷物カウンターの脇に立っていた結は、ぎくりと身を強張らせた。とっさに顔を背けたけれど、視界の隅に高志がこちらに向かって歩いてくるのがわかった。
「ユイ?」
 アイスが隣でふしぎそうな顔をする。結はアイスの影に隠れるように場所を入れ替わると、カウンターの裏に並んだ荷物管理のリストを必死に眺めるふりをした。けれどこちらに歩み寄る靴音を、耳が拾ってしまう。
 カウンターの縁に、片手が置かれた。どくん、と耳の内側が鳴る。

「ちょっと話せない?」

 いつの間にか震えていた顎を上げた。下がる目尻が、彼を柔和な人に見せる。
 あんなに求めていたときは一切連絡してこなかったのに。今さらなにを話せというんだろう。
「少しだけでいいから」
 黙っている結に高志はそう言い募る。高志のななめ後ろで、アイスが怪訝な顔で高志を見ている。結はぎゅっと唇をかみしめた。
 このまま断って、居座られても迷惑だから。自分をそう納得させて、ロビーを出た。

 プールの奥にある庭園は美しく整備されていた。ホリデーシーズンを前に、生垣には電飾が巻かれ、夕方を過ぎれば美しくライトアップされる。白いミニステージでは週末ごとにダンスやライブのイベントが行われて、そのためにステージ前にはプラスチックの椅子が並んでいた。
 けれど正午を過ぎて一番暑いこの時間、木陰のない庭園を歩く人はいない。かなり離れたところで生垣に水を撒く庭師が一人いるだけの、静かな場所だった。

 高志は日本との気温差に慣れないのか、額を絶え間なくハンカチで拭いながら険しい顔をしていた。結は少し距離を取って、黙って立っている。自分からなにかを話す気はなかった。生垣の奥から猫が一匹、ゆっくりと歩いていく。
「怒ってるよな」
 そう大きくもない声は、静まり返った空気の間にポッカリと響いた。
 小さく鼻で笑って、両腕を組んだ。
 瞬間的に膨れ上がった感情は複雑すぎて、シンプルな答えにならない。怒ってるよな、なんてまぬけな質問に返せる回答をもってなかった。
「いきなり会社辞めたから、驚いたよ」
 横目でチラリと見ると、高志は落ち着かなげに組んでいた手を握り合わせていた。
 結は黙ったままでいた。恋人が別の人と婚約した職場で、いつまでも働けると思う方がどうかしてる。そう思っても口には出さない。水色の空の下、奥で庭師の撒く水が小さな噴水のように光っていた。

「あの男はああ言ったけど、やっぱり無理に働かされてるんじゃないのか?」
「そんなことない」
 その言葉に反射的に答える。
「住み込みでお手伝いしてるだけ。働かなくてもいいって言われたけど、それじゃ私が嫌なの」

 頼むから、ホテルに戻ってくれないか。働くのが嫌ならそれでもいい。
けど、いなくならないでくれ。

 懇願するように言われた言葉を思い出して、固くなっていた心の内側がぞくりと波立つ。
高志が問うように眉をひそめているのに気がついて、口調を強めた。
「とにかく、無理に働かされてなんていない。それに、高志には関係ないでしょう」
 本当にそう思っていた。結に黙って婚約した男。その男と自分に関係あることなんて、もうなにひとつ残ってない。
 高志は組んだ両手を見つめたまま、苦笑いを浮かべた。
「そうだけど、心配くらいしちゃだめか?」
 そう言って、自分の方が弱者のような、どこか弱々しい目で結を見る。こういうところがこの男のずるいところだ。
 結は両腕を組んで冷めた声で言った。
「私より瞳さんの心配したら?」
 高志がハッと目を見開く。組んだ両手に視線を落として、
「……すまなかった」
 零れる低い声。微かに顔が歪められる。
 高志はうつむいたまま、低い声で言った。
「連絡しなくて、悪かった。なんて話せばいいのかわからなくて」 
 予定通りの結末を結に与えておいて、そんなことを言う。
 
 結局、こういうひとだったんだな。
 淡々と思いを馳せる。そもそもどうして、この人と付き合ったんだっけ。
 たいしてドラマティックな馴れ初めはない。部署が同じだったから、一緒に残業することも多くて、それでなんとなく。
 なんとなくって、なんだ。
浮かんだフレーズに苦く笑う。でもそう、ちゃんとなにかを言われたわけじゃなかった。いつの間にかアパートに来るのが当たり前になっていて、それでだから、ちゃんと付き合ってるんだと思っていたけど。
 ……なんか私も、馬鹿だったんだな。
 二十三歳の自分を思い出して、組んだ両腕を握りしめた。
 今こんなに慎重になっているのが馬鹿らしいほど、当時の結は浅はかだった。
 
 だけどどうして今、気づいたんだろう。
 
 そう思うと、さっき浮かんだ声がもう一度耳朶でささやいた。

 ユイが幸せでありますように
 
 そう、彼はいつもあんなふうに言ってくれる。与えてくれる。
 こんな扱いを受けていた結の幸せを望んでくれたひとがいる。そう思ったら、息苦しいこの場所の空気が少しだけ清涼なものになった気がした。
 顔を上げて高志を振り返る。高志は様子を窺うようにこちらを見ていた。こちらに向かって伸びかけた手が、結に触れることをためらうように中途半端な位置で止まっている。
 
 それでいい。触られてたら、殴り飛ばしてた。

 そう思ったら、どこか気もちがスッとした。
「私もう行くから」
 声は震えなかった。高志と目が合う。何千回とこの顔を近くで見てきた。だけどもう、あの距離で見ることは二度とない。
「私たち、別れましょう」
 今さらの言葉に、高志は目を丸くした。けれど結は真剣だった。
 あんな間接的で一方的なものじゃなくて、こうやって終わりたかった。
「もう話しかけてこないで」
 そう言うと、高志を残して裏庭を出る。パンプスにはやや不向きな芝の上を、スカートのスリットが許す限り大股で歩いた。
 歩きながら自分の状態をたしかめる。
 
 泣きそう?
 
 尋ねたら、涙の代わりに薄い笑みが浮かんだ。
 もう高志のためには、泣かない。
 そう答えられて、そのことに深く安堵する。
 ようやく区切りがつけられたような、そんな気がした。

 ふいに視線に気がついたのはそのときだ。
 奥庭と館内を繋ぐ扉のすぐ近くに立つ、柳のように垂れて黄色い花をつけるゴールデンシャワーの木。その木の隣に、瞳が立っていた。こちらをじっと見ている。目が合うと、さっときびすを返して館内へと戻っていった。
 結はそっと息を吐いた。なにか言い知れぬ感覚が、ざわざわと胸の内側を鳴らす。
 ぶわり。
 凪いでいた空気を乱すように、風が吹いてきた。
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