恋するバンコク
 五分前までキスをしていたその場所に、キスした相手の両親が座っているというのはなんとも落ち着かない気分にさせられる。
 
 タワンがゴホン、と咳払いをした。
「改めて紹介するよ。僕の父親、パラハーンと、母親のぺチャラパン」
 パラハーンがにこりと笑んで言った。
「ようこそ、サワン・ファー・ホテルへ」
 最初にタワンにも言われた言葉をパラハーンも言う。問うように見返せば、タワンが横から口を開いた。
「父はうちのホテルの」
 そこでわずかに逡巡するように言葉を区切った後、
「オーナーなんだ」
 そう言って、結がなにか言うのを制するように早口で続ける。
「黙っていてごめん。隠してたわけじゃないんだ」
「結果的にそうなったけどな」
「父さん」
 タワンが横槍を入れる父親に険しい顔で振り返る。結が呆然とした顔でタワンを見ているのに気がつくと、弱り切った顔で片手を上げた。
「もちろんちゃんと話すつもりだったよ」
「どうして言わなかったの?」
 そう尋ねたのは、結ではなくぺチャラパンだ。前のめりになって膝に肘をついて、その手に顎を乗せる。痩せた夫とは反対に丸みのあるシルエットに、柔らかな髪が流れるように落ちている。
 タワンは黙ってテーブルに目を落とす。答えたくないというより、言葉を選んでいる沈黙のようだった。

 結はコーヒーが注がれたティーカップに視線を落とした。タイの有名なベンジャロン焼きのティーカップ。白い陶器に純金で縁取りをして、桃色と黄色の細かな柄が万華鏡のように描かれている。この気品あふれる繊細な柄のティーセットが、この部屋にはよく似合う。結の東京の部屋にこれを持ってきたら、浮いてしまって仕方ないだろうけど。
 タワンと結は住む世界が全然ちがうのだ。今さらのように、そんなことを噛みしめる。

「そりゃ決まってるだろう」
 コーヒーを飲みながら、こともなげにパラハーンが答える。
「いい恰好をしたかったからさ。いつの時代も、男は自分ひとりだけを見てもらいたいものだ。額縁ではなく中身をね」
 タワンは苦い顔で父親を見つつ、けれど否定はしていなかった。
 なにを言ったらいいのか、なにを感じたらいいのかわからずうつむく結に向かって、パラハーンは優しい眼差しを向けた。
「私はオーナー職には就いてるけど、もう半分引退してるみたいなもんでね。一年の大半はチェンマイに引っこんでる」
 タイ北部の地名を指してにこやかに言う。
「親の私が言うのもなんだが、こいつは割にしっかりしてる。愛想がいいのも大事、商才があるのも大事、だけどあのホテルが好きなことは、いちばん大事なことだ」
 パラハーンとペチャラパンが息子を見る目には、誇りと慈愛が浮かんでいた。タワンは照れているのか、二人と目を合わせようとせず下を向いている。けれどその顔には結を見る時とはまたちがった種類の笑みが宿っていて、複雑に燻る結の胸の奥にほっと温もりが灯るのを感じた。

 それにしても、今日はなんだかいろんなことを知らされる日だ。
 ヨウちゃんは、タワンだった。そのことだけでも衝撃的なのに、さらに知らないタワンを次々と目の当たりにされる。

 キティーのタンクトップを着て一緒に遊んでいた親友。結にキスを仕掛けてくる色気あふれる男。親の前で照れたように下を向く息子。ロビーを颯爽と歩く支配人。
 タワン・パラハーンを形作る、いくつものピース。そしてそれらを受け入れていっている自分をふしぎに思う。
 結の考えを読んだように、ペチャラパンがこちらを見て微笑んだ。

 ああ、このひとはまちがいなくタワンのお母さんだと思った。
 顔の造作は似てなくても、優しい微笑い方がそっくりだ。

 タワンを見て、さっきから気になっていたことを尋ねる。
「昔一緒にいた女の人はだれ?」
「家のお手伝いさんだよ。あのひと結のコンドの清掃スタッフもやってたから。たまにくっついて行ってたんだ」
 さらりとタワンは答える。家にいたお手伝いさん。あのひとは、母親じゃなくてお手伝いさんだった。
 あらためて視線を室内に向けた。玄関に行くまでちょっとした距離のある広い部屋。大理石の床。大きな花器と花と、優美な曲線を描くランプ。黒い革張りのソファ。引かれたカーテンの向こうに広がるバルコニー。

 いいじゃん支配人。かっこいいし、お金持ちだしさ 

 前にアイスに言われた言葉がよみがえる。あれは本当に、言葉通りの意味だったんだ。
 胸元のペンダントに指先で触れる。

 きっといつか、素敵なことが起こるから。

 ペップナンの言葉の意味を、ようやく理解する。彼女はきっと知っていたんだ。ヨウがお手伝いさんの家の女の子じゃないってことを。
 考えてみれば、刻まれている文字は同性の友だちに送るメッセージにしては情熱的すぎる。ヨウがお手伝いさん家の女の子じゃなくて、お金持ちの家の男の子だから、あんなふうに言ったんだろう。

 素敵なこと。これは、すてきなことなんだろうか。
 ふしぎに凪いだ心で考えてみる。
 大人になって再会した親友は、王子様みたいな男の子になって帰ってきた。
 童話の物語みたいだ、とどこか他人事のように思う。
 王子様とかお金持ちとか、そんなのどうでもいい。
 そんなことより、
 
 僕は君を愛してるんだって

 あのまっすぐな言葉を言われた時のほうが。
「ユイ」
 物思いは、低い声に呼ばれたことでぱちんと弾かれた。なにかの判決を待つような固い表情で、タワンが尋ねた。
「幻滅した?」
 ふ、と心の中で笑ったのに、それは表情まで現れなかった。
 お金持ちだと知って相手に幻滅するなんて、ふつうはない。それなのにタワンはそのことを、本気で気にしてる。
「そんなこと、ないよ」
 だけど怒涛のように食らった事実に、頭が着いていってないのも本当だ。
 なんだか疲れた。

 高志に再会して、ヨウちゃんはタワンだと知らされて、タワンの両親にも会った。
 そうあと、キスをした。
 やさしくて、心地のいいキスを何度も。

 ちょっともう、許容オーバーだ。
「私、帰りますね」
 タワンの両親に向かってそう言って立ち上がった。
「送るよ」
 すかさず立ち上がったタワンに、パラハーンが言った。
「仕事に戻ると言わんか、支配人」



 アパートには車で来たのに、タワンは歩きを選んだ。歩道を並んで歩いていると、OLを後部座席に乗せたバイクタクシーが後ろから走ってきた。すぐ近くにバイクタクシーの停留所があるから、彼らは歩道にも次々乗り上げてくる。タワンが結の肘をそっとつかんで、守るように隅を歩かせた。
 夜の歩道に、白熱休をぶら下げた屋台が固まって数件並んでいる。豚肉を串刺しにして焼くおじさん、青マンゴーを台車いっぱいに並べているおばちゃん、クレープ生地に卵を落として焼く屋台にタイ人の女の子たちが数人並んでいる。
 甘い、からい、すっぱい匂いの混ざる屋台と、その周りにバラバラと並んだテーブルと椅子。歩道は時に一人ずつしか通れないほど狭くなる。ガタガタとした段差だらけの、時には大きな穴の開いた歩道を、足の運びに気を付けながら歩き続けた。

「怒ってる?」
 ホテルが近づいてくると、それまで黙っていたタワンが尋ねた。結は前を見たまま、
「怒ってないよ」
 と答える。意識したわけでもないのに、その声はいつもより少し平べったい。
 ふいにタワンが立ち止まった。二歩先を歩いたところで、結も同じように立ち止まる。二人の間を、繋がれてない痩せた犬が舌を出して歩いていった。
「ちょうどここだったよね、ユイが絡まれてたの」
 タワンが小さく言った。結も記憶をめぐらせて、その後おもわず薄く笑った。
 男たちに日本のお札を見せてくれませんか、と言われて。固まっていたところに現れたタワンを思い出す。

 ――かっこいい、と思ったんだよね。

 そう、お金持ちとか、お父さんがオーナーとか関係ない。
 タワンはタワンだから、かっこいいのだ。
 
 ふいにクン、と手を握られた。咄嗟に体を強張らせて、指先を握り返すことも振り払うこともできず、だらりと下げたままタワンを見上げる。
「結にずっと会いたかった」
 タワンは指先をぐっと絡めて力をこめた。その顔は真剣すぎて、怒ってるようにも見える。
「ここで名前を聞いて、ペンダントを見て。僕がどれほど驚いたかわかる?」
 ゴゴゴゴ、とBTSが高架を走っていく。犬が甲高く吼えている。パフパフ、とラッパが鳴って、移動式屋台を引いた老人が車道の脇を通っていった。
 なにも言えず黙りこんだ結に、タワンはなぜかクスリと笑った。
「なにがおかしいの」
 細かな感情をごまかすようにつっけんどんに尋ねれば、タワンが穏やかに目元を緩めた。
「ユイが絡まれてたとき、僕があいつらになんて言ったか覚えてる?」
 タワンが言う場面を思い出す。男たちに向かって、タワンがタイ語でなにか叫んだことが、あった。
 あったけど、なんだったろう。
 思い出すというより、あの頃はタイ語を忘れてたから全然聞き取れてなかった。
 正解を見つけられずにうすく眉を寄せれば、タワンはどこか懐かしむように笑みを浮かべた。
「カオペンフェーンポム。そう言ったんだよ」
「――――あ」

 カオペンフェーンポム
 その意味は。

 彼女は僕の恋人だ。

 頬がふわりと熱くなる。
「ユイ」
 タワンがユイの両肩に手を置いて、そっとなでるようにその手を下げた。

「僕の恋人になって」

 ぎゅ、と胸の真ん中が熱く捻じれる。それに抗うように、目を伏せた。
「……むりだよ」
「いろんなことを黙ってたから?」
 のろのろと首を横に振る。
 そんなことより、もっと。
「ずっとここにはいられないんだもの」
 そういうことだ。

 そう遠くない日に、はなればなれになる。
 それがわかっていて飛びこむことなんて、できない。

「……日本語を、勉強したんだ」
 落ち着いた声でタワンが言う。そっと目線を上げると、タワンは静かな目で結を見つめていた。
「昔、ユイに伝えたいことがたくさんあった。だけど言葉がわからなくて、悔しかった。だからもしまた出会えたら、きちんと話せるようにしようって、そう思って勉強してきた」
 タワンは笑った。頬を撫でる乾季の風のように、穏やかな笑みだった。
「それが今では僕のスキルになって、こうやって仕事にも活かせてる。ユイ、君が僕にくれたものはたくさんあるんだ。たとえ離れていても」
「――タワン」
 ゆっくりと心に響く言葉が、胸を苦しくさせる。
 もう。
 泣いてしまいそうだ。

 目を伏せたタワンが、結の手を取って指先にそっと口づけた。優しいキスだった。
 かつて親友だったひとをぼうっと見る。

 今日はまったくなんて日なんだろう。ふたたびそう思った。
 元彼にさよならを言って、親友の正体を知って、愛を告げられて。
 挙句に、自分の心がどこに向かっていってるのかわかってしまった。

 衝動的に口を開いて、それでも寸でのところで躊躇する。
 だれかを愛しく思うなんて、そんなの本当にこわいことだ。

「僕を信じて」

 タワンははっきりと言った。とまどいがそのまま瞳に現れている結に、安心させるように笑いかけた。
 胸が震えて、息が苦しくて、それなのに甘い。
 こんな気もちをなんて呼ぶか知っている。
 だけど、だからこそやっぱり、笑い返すことができなかった。
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