恋するバンコク
 あれから二週間が経った。あの時に告げた辞めます、という言葉を最初は誰も本気にせず、電話口の部長は怒鳴ってばかりだった。それでも結がオウムのように同じ言葉ばかり吐くので、連絡してくる相手はいつしか部署の人間ではなく人事アシスタントになった。柔らかな声と合わない機械的な口調で、退職にあたっての手続きを淡々と説明された。

 人事から届いた書類に署名すると、その書類を持って久しぶりに外に出た。十一月の空はガラス瓶のようにツルリと光って、空の上のほうから冷たい空気をひやりと送り込んでくる。室内に引きこもっていた二週間の間に紅葉のシーズンが始まったのか、郵便局がある駅前通りに植えられた木々は赤く色づいている。自動ドアが開いた瞬間、パチンコ店からドラムを叩いたような大音量が聞こえてきた。

 出勤時間を二時間過ぎた駅周辺を歩くのは、自転車を引いた主婦や老人ばかりだった。結のような若者はあまりいない。みんな急ぐでもなく、のんびりと歩道を歩いている。
 ポケットに入れていた携帯が振動して、結は一瞬のためらいの後携帯を取り出した。着信を告げるLINEと、同僚の名前。大丈夫? と書かれた最初の文字を見て、小さく息を吐いた。

 突然会社を辞めた結を心配してか、同僚は何度か連絡をくれた。それなのに、結は一度も返事をしてない。少し話し始めれば全てを打ち明けてしまう確信があったから、なにも言えないでいた。
 こんなことになってまで庇う相手でもないとわかっている。話せば皆同情してくれるだろう。辞める必要はないと言ってくれるかもしれない。それでも誰にも話すつもりはなかった。終わった恋の思い出を自分で汚してしまいそうで嫌だから。というのは建前で、単に最後のプライドなのかもしれない。
 自分でも自分がよくわからなかった。思考の一部は相変わらず麻痺していて、食べたり飲んだり、眠ったりを機械的に行っているだけだった。あの日以来泣いてないし、あの日を最後に高志からの連絡はなかった。

 郵便局から帰ってカーテンを引いたままの薄暗い部屋を見ると、冷やされた体にまとわりつく篭もった空気に眉間に皺が寄った。
 脱ぎ散らかした部屋着が重なってソファを占領している。口の開いたままのスナック菓子の袋。涙や鼻水を丸めて捨てたティッシュ。投げ出されて転がっているテレビのリモコン。相変わらず飾られたままの二人の写真と、男物のパジャマたち。
 さっきLINEに表示された文字が頭に浮かぶ。

 大丈夫?

 肩にぐっと力を入れて、鼻で息を吸いこむ。深く、吐いた。
 大丈夫じゃない。このままじゃ、だめだ。

 靴底同士を踏むようにスニーカーを脱ぎ捨てて、部屋を突っ切る。閉めっぱなしだったカーテンをシャッと思い切り引っぱって、そのままガラス戸も引く。電車の通り過ぎる音がガタガタと聞こえる。
 ここにいちゃいけない、と急に思った。
 このままじゃ自分が駄目になる。

 衝動に駆られてパジャマや二人の写真を掴んで、ゴミ袋へと捨てていく。悲しくはなかった。ただ焦りだけがあった。今さらになって、自分はこの不況下で会社を辞めたんだ、ということをきちんと理解した。その事実はあっという間に結の体を震え上がらせた。

 私は馬鹿だ。男を失ったついでに、職まで失うことはなかったのに。
 最悪の時は過ぎたと思ったけれど、今度こそ本当に途方に暮れた思いで、写真立てを掴んだまま呆然と座り込む。
 そのときだった。

 ――――ん?

 飾られていた写真立ての、すぐ後ろにそれはあった。
 窓から零れてきた光を弾いて、つるりと静かに光っている。

「これ……」

 無意識に口の中で呟いて、そっと手に取る。水色と緑色の間に、透明な滴を足して滲ませたような色のペンダント。少しほつれた革紐にぶらさがって、ひやりとしたそれは結の掌で優しい輝きを見せていた。
 パニックを起こしかけていた心が静かに凪いでいくのを感じる。 

 ――ヨウちゃん。

 久しぶりに名前を思い出して、結の目が嬉しげに細くなる。そうだ、ヨウちゃん。
 私の親友だった女の子。
 日本に帰ることを告げた後、このペンダントをくれたんだ。

 体の力を抜いて座り込む。傍に置いていたゴミ袋が、ガサリと音を立てた。
 結はゆっくりとペンダントを親指で撫でた。つるりとした独特の手触り。これがタイの有名な焼き物の種類だと知ったのは、ずっと後になってからのことだった。

 ヨウちゃん。
 もう顔もはっきりと思い出せないけれど。
「元気かなぁ」
 呟いて身を反らすと、体重を後ろに預ける。光に透かすようにペンダントを掲げて見ていると、ふいに裏側に掘られた文字に気がついた。
 魔法使いが使う太古の文字のように、判読できない文字の羅列。友達のおかげで言葉は不自由なかったけれど、この文字だけはわからないままだった。
 なんて書いてあるんだろう。
 
 このペンダントを無くさないことよ。

 昔、誰かにそう言われた。あれは誰だったっけ。

 大人になるまで大切に持ってなさい。そうしたらきっといつか、素敵なことが起こるから。

 そう言って笑う、大人の女の人。ああ、そうだ、近所の子の親の。もう名前は覚えてないけれど。
 つるりと冷たいペンダントを頬にあて、目を閉じる。

 素敵なこと。

 心の中でゆっくり言葉を返したら、閉じた目の端が熱く潤んだ。
 二年も付き合ったんだから、電話くらいしなさいよ。

 ペンダントに涙が流れ落ちる。熱い涙がひやりと冷やされて、その心地良さに縋るようにペンダントを握りしめる。
 あの日から二週間。久しぶりに結は泣いた。濁った感情をろ過していくような、静かな涙だった。



 あの国にもう一度行きたい。涙が乾いた後のふしぎと凪いだ気もちで、結はふいにそう思った。もう顔も覚えてない親友と再び会えることなんてないだろう。それでも結はあの国に行きたかった。いや、帰りたかった。
 あそこに九歳の結がいる。ヨウがいる。恐いものなんてなにもなかった、子ども時代の楽園だった。
 今すぐやらないといけないことは他にある、と冷静な結はそう告げる。だけど、と九歳の結が心の中で首を振る。

 起きなかったよ、素敵なこと。
 見つけにいってもいいじゃない。

 そうだ、と胸の内の声に押されるように、そっと笑う。久しぶりに押し上げた唇の端が作る笑みはぎこちなくて、でももう一度笑えたことに安堵した。
 そうだ。もう一度だけ、会いにいってみよう。
 子ども時代の思い出に。あの街に。
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