恋するバンコク
 ロイヤル・デラックス・ルームは外の暑さとは裏腹に、完璧な室温を保っていた。リビングスペースに置かれたダイニングテーブルと椅子の脚は優美な曲線を描き、テーブルに置かれたガラスの花器には蘭が飾られている。壁一面に張られたガラス窓を引けばバンコクの市街を最上階から一望できた。
 ベッドサイドに置かれた丸テーブルは、ダイニングテーブルと揃いの華奢な作り。そのテーブルの上に置かれたウェルカムシャンパンとウェルカムフルーツを、客人は一瞥もせずに両腕を組んだ。

「いらっしゃいませ」
 タワンは頭を下げた一瞬の間に、心のうねりを静止させた。一泊四万五千バーツからのロイヤル・デラックス・ルームを、年明けまで三週間も貸し切ろうとした上客に、支配人の自分が礼儀を欠くわけにいかない。
本心はどうかは別にして。

 再び顔を上げたタワンの顔には、いつもの笑みが口の端に均等に刻まれていた。
「ふたたびのご利用まことにありがとうございます」
 そう言うと、彼女――瞳は、今はじめてタワンの存在に気がついたとでもいうように、ゆっくりと顔を上げた。
 タワンの表情を値踏みするようにじっと見て、無表情に口を開く。
「あなたは笑ってない時の方が、顔が整って見えるわね」
 タワンは笑顔のまま無言で頭を下げた。棘を含んだ言葉を流す術は心得ている。客商売で、いちいち怒っていては身が持たない。 
「結さんは?」
 その名前に、笑顔を動かさないままタワンは硬直した。
 じり。胸に松明を押し付けられたような痛みと熱が宿る。後ろに控えているアイスが息を飲むのがわかる。日本語がわからない彼女なりに、ユイという名前を聞き取ったんだろう。
 タワンは背筋を伸ばして笑顔で言った。
「彼女は日本に戻りました」
 忽ちあらゆる思い出がよみがえってきそうで、本流のように強く熱いその波を意志の力でおさえこむ。この二週間ずっとそうしていたように。
 瞳の顔にはじめて感情が芽生える。わずかに見開いた目が驚きを表わしていた。
「本当なの」
「はい」
 最小限の言葉だけで返す。唇の端が、本人しかわからない程度に震えた。

 ユイ。
 その名前を心に浮かべることさえも自分に禁じていた。
 彼女の名前はなにかの呪文のように、タワンの心をかき乱す。一番最初に浮かぶのは、いつもと同じように彼女の笑顔だった。笑う結は、ジャスミンの花のように愛らしい。けれどその匂いは花より甘く、タワンはいつも酔いしれた。彼女の肌の匂いを思い出して、ふいに息が止まる。
 
 お金持ちみたいだから、いいやって思ってたけど。やっぱり私、恋人は高志みたいに日本人がいいの

 彼女ほどかわいくて残酷なひとを、ほかに知らない。
 自分の性別や出生を黙っていたことに罪悪感をもっていたけど、結はそんな思いを蹴散らすほどに痛烈なパンチを浴びせてきた。おかげでもう二度と立ち上がれる気がしない。
 パラハーンが時々何か言いたげに自分を見ていることに気づいていたけれど、あれ以来必要なことしか話してなかった。彼女の本性に気がつかなかった自分にその機会を与えてくれたのだから、感謝してもいいくらいだ。理屈ではそう思うけれど、そんな風に全然思えない。
 いっそ騙し続けてほしかったなんて、思う自分は呆れるほど馬鹿なんだろう。

「なぁんだ」
 タワンの物思いは、瞳の溜息交じりの声にかき消された。無意識に継続していた微笑みをそのまま向けると、
「せっかくだから結さんのこと、いびり倒してやろうと思って来たのに」
 物騒なことをふて腐れた調子で言って、ベッドに乱暴に腰掛けた。
「お荷物は出入り口に置かせていただきます。ご朝食は七時から十時まで、一階のレストランでご用意しておりますが、こちらに運ばせていただくことも可能です」
 よどみなく説明して、言い終わり次第出て行こうとする意志を遮るように瞳は口をはさんだ。
「ね、結さんと別れたの?」
 言葉が途切れた。空調の鳴るかすかな音だけが室内に響く。タワンがなにも言わないでいると、瞳はベッドの下に足を下ろしたまま勢いよく後ろに倒れこんだ。そんな動作は、お嬢様らしい彼女の雰囲気に合わない。
瞳は寝転がったままつぶやいた。
「私は高志さんと別れたのよ。あたりまえよね? 二年も浮気してたひとと、結婚なんてできるわけないじゃない」
 そう言う瞳の目から、さらさらと水のように涙が流れる。白いシーツに吸いこまれていくそれに気づく様子もなくつぶやいた。
「だから悔しくて、結さんでも虐めちゃおうかなって、もう一度来たの」
 キングサイズのベッドに一人横たわる瞳は、打ち捨てられたおもちゃの人形のように小さく見えた。それは儚く切ない光景にも見えたけれど、言葉の意味を理解したタワンは反射的に口を開いていた。
「恨む相手がちがいます。彼女も被害者です」
 最初のころ、結はずっと傷ついて怯えていた。そんな彼女に想いを伝えて、その距離を強引に詰めていったのは自分だ。
 結が心を開いていってくれるのがうれしかった。名前を呼ぶと振り返る。タワンを見とめて笑いかける。その笑顔。
 結こそ、僕のタワン――太陽だった。
 そう思うと同時に、タワンの顔に抑えがたい苦悩が滲む。
 
 ほんとは私、迷惑してるんです

 記憶が心を嬲る。もう何度も頭の中で繰り返しては、息が止まりそうな思いを味わっているのに。
 苦痛しか与えない思い出なのに、どうして捨てることができないんだろう。

 ぐい、と手を引かれたのはそのときだ。
 いつの間にか起き上がっていた瞳が、涙の跡を残した目でタワンを見上げていた。その白く細い手が、タワンの手首をつかんでいる。
「あなたもさみしいのね?」
 さっき見せた、感情を見せない人形のような目だった。
「ちょうどいいじゃない。慰め合いましょうよ、私たち」
< 34 / 40 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop