恋するバンコク
 瞳はタワンの手首を掴んだまま、微動だにせずこちらを見上げていた。涙が目を赤く充血させていた。
 沈黙に焦れた様子もないその淡々とした表情を見て、やっぱり人形のようだ、と思う。心をもってない人形。抜け殻、とも言う。タワンの手を握る瞳にアイスが訝しげな顔を向けているのが視界の隅に見えた。
 
 ふいにメロディが流れてきたのはそのときだ。耳に覚えのあるLINEの着信音。さきほどロビーでWi-Fiを設定した瞳のスマホから流れているようだった。
 人形のように固まっていた結はぱっとタワンから手を離すと、ベッドから降りてスマホを探った。そして弾かれたように顔を上げる。
「高志よ」
 途方に暮れたようにそう呟いて、はたから見ても青ざめたとわかる顔でタワンを見る。けれどすぐに、呼び出しが切れることを恐れるように素早くスマホをタップした。
「もしもし」
 タワンはアイスを振り返ると、目で退室を促した。アイスは頷いてトランクケースを荷物台に置くと、そのまま外に出た。タワンもそちらへと向かう。
「今? バンコクよ」
 存外に落ち着いた声で瞳は話している。タワンは背中に届く話し声を拾わないように足を早めた。
「そう。今、あの支配人さんと一緒にいるの」
 自分のことを引き合いに出され、おもわず立ち止まった。瞳はこちらを見ることなく、
「このひとも結さんと別れたばかりみたいだし、私たち付き合うことにしたの」
 高志がなにか言う声が、スマホから漏れ聞こえる。ノイズのように尖ったそれは、悲痛な叫び声のようだった。瞳はそれを断つようにスマホをぶつりと切った。
「……お客様」
 放心したように空間を見つめる瞳に、タワンはゆっくりと呼びかけた。瞳がぼんやりとこちらを向く。迷子の子どものようにぼうとした目に、涙がたまっている。
 まったくこのひとは。
 この間から、厄介ごとばかり運んできてくれる。

 ふぅ、と肩を落として瞳のもとに歩み寄った。瞳と目線が合うように、少しだけ屈みこむ。やっぱり子どものような目で、瞳はタワンを見ている。
「あまり自棄にならず」
 自棄という言葉はお客様に失礼か、と思い言葉を区切る。日本語は難しい。
「ご自分を必要以上に傷つけないほうがいいかと思います」
 放った嘘が結局のところ自分を傷つけてしまうから。
 タワンはそのことを身に染みてわかっていた。

 それに、僕にもそんな気はありません。という言葉は伝える必要はないだろう。相手に少し痛みを与えたいだけの、内容のないハッタリ。手を握ってきたときもそうだ。もし彼女に多少でもその気があるなら、アイスが同じ部屋の中にいるこの状況で誘ってきたりはしないだろう。
 瞳はパチパチと目をまたたいた。その拍子に涙がまた流れ落ちる。
「だけどもう、どうしたらいいかわからないのよ」
 言った顔がふいに歪む。それがきっと彼女の本音だ。

 タワンはなにも言わずに一歩下がった。 
 今の瞳は、そのままタワンの姿でもあった。
 
 好きだから苦しい。
 だけど、本当は手を伸ばしたい。
 
 瞳の子どものような泣き顔が、ありし日の彼女の泣き顔と重なる。
 コンドミニアムの塀の前にしゃがみこんで、心細げな顔でこちらを見る小さな女の子。そしてそれが、そのまま再会したときの結へと姿を変える。男たちに挟まれて、怯えた顔でこっちを見てきた彼女。今も昔も、自分だけが彼女を救えるんだと、庇護欲と独占欲を駆り立てられる。

 そうだ。そういうことなんだ。
 タワンは知らず、微笑んでいた。受け入れてしまえば、一向に明るくない状況でも笑みが浮かんだ。
 何度考えても結論は変わらない。結が一番大切だ。たとえ彼女にとって迷惑な話でも。
 空港まで逃げていった結を追いかけて連れ戻したのは、ほかでもないこの自分じゃないか。どうして今さら、片思いに落ち込む必要がある?

 日本人じゃない? 上等じゃないか。国がちがうから、考え方が違うから、わかりあえないことを最初から少し、わかっている。
 そのうえで恋をした。
 誰にも文句は言わせない。たとえ結自身にさえも。
 いきなり笑顔になったタワンを訝しむ瞳に、タワンは笑みを浮かべたまま言った。
「こう見えて私はしつこいんです。他の誰かじゃ満足できない。彼女だけが欲しいんですよ」

 部屋を出ると同時にアイスを振り返った。
「明日から数日休暇をもらう。週末までには帰るから」
 突然の宣言に目を丸くしたアイスに重ねて言う。
「携帯にはいつでも連絡してくれていい。出れるか判らないけど。それと至急航空券を手配してくれないか?」
「支配人」
 アイスが言葉を遮った。アーモンド形の目が、タワンの心情を探ろうとするかのようにこちらをひたと見つめる。
「本気なんですね?」
 その言葉に黙ってうなずいた。苦笑して、
「蹴り飛ばされるかもしれないけどね」
 おどけたように言ってみせても、アイスは笑わなかった。ただむっつりと黙りこむ。タワンはかまわず、急いた気分にまかせて大股でエレベーターホールへと向かう。その一方で、習慣に従って掃除が行き届いてるか目の端で廊下を確認した。向こうのほうに誰かが捨てたらしいレシートの屑を見つけて、かがみこんで拾いあげる。

「蹴り飛ばしは、しないと思いますよ」
 その背中にアイスが声をかけた。 
「ずっと一緒にいたいって言ってましたから」
 タワンは固まった。振り返ると、離れたところに立っていたアイスはやっぱり笑みの無い顔で言った。
「ここで働きたいって、あの子そう言ってましたよ」
 おもわず一度もしたことのないことをした。
 立ち上がったタワンは、客室前の廊下を勢いよく走った。三歩でアイスの前へとたどり着く。心臓が激しく鳴っているのは、まさか今の三歩のせいじゃない。
「なんで教えてくれなかったんだ」
 結がいなくなったことは、同室のアイスはもちろん知っている。ここ二週間のタワンの様子も、知らないはずもない。
 
 ずっと一緒にいたい。
 ここで働きたい。
 
 最後の彼女の様子を思えば矛盾に満ちた、けれどこのうえもない言葉に一気に胸が高鳴り、情けなくも語尾が震えた。
 アイスはそこではじめて表情を変えて――リンチー(ライチ)の中から出てきた芋虫を見るような目でタワンを見た。
「なんで私がそんなこと教えてあげないといけないわけ? ユイを信じなかったのそっちでしょう」
 およそ支配人に向ける口調ではない。一瞬固まり、けれどすぐに持ち直す。言葉もなくアイスをまじまじと見つめた。
 アイスは両手を腰にあて、
「あの子、悪い女じゃないです。そんなの支配人が一番よく知ってるでしょう」
 悪い女、という曖昧でいて的確な表現。じわじわと、言われた言葉が頭の中を巡っていく。
 
 信じさせて

 二人が恋人同士になったあの夜、結はそう言ってタワンに手を伸ばした。
 迷いながら、怯えながら、それでもタワンを信じてすべてを委ねてくれた。
 ガン、と殴られたような衝撃がはしる。
 そうだ。よく知っていたはずじゃないか。
 結がどれほど一途な女性か。人を愛することを警戒して、けれど受け入れてくれた後はあんなにも、柔らかな目を向けてくれていたのに。
 鼓動が鉛のように重く体を内側から叩いて、血の気が引いていくのを感じる。
 
 結は僕を信じてくれた。それなのに、どうして僕は彼女を信じられなかったんだろう?
 
 一瞬前まで膨れ上がっていた興奮が、あっという間に消えていった。
 許すことならいくらでもできる。
 だけど、許されるかわからないのは恐かった。
 片手で顔を覆って、深く息を吐く。そうしながら、呆けている場合じゃないとも思った。
 後悔に胸をかきむしられる思いをするのは、飛行機の中で十分だ。 

 企画部との打ち合わせ、予算案の修正、売上の報告。
 今日中にやるべきことが頭をよぎって、ぐらつく頭を支える。
 一刻も早く結のもとに行くために、今すべきことをしないといけない。
 手を離して顔を上げたタワンは、いつもの支配人の顔へと戻った。アイスが、彼女の友達が値踏みするような目でこちらを見るのを感じながら。
 エレベーターを降りたタワンはロビーへと戻り、スマホを胸ポケットから取り出しながら、ふと窓の外を見た。天井までのガラス張りの窓からは白い陽が室内にこぼれていて、そっと目をほそめる。
 空の奥からバンコクを照らす太陽。
 僕の太陽を、必ず捕まえてみせる。
 そう心に決めて、一番の問題を片付けるためにスマホを耳にあてた。
「もしもし、父さん――?」
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