今度こそ、練愛

あの時のように、悲鳴は聴こえない。
坂口さんは彼女のような悲鳴を上げたりしなかった。



「坂口さん、もうやめて」



代わりに聴こえてきたのは岩倉君の声。
いつもの無愛想で淡々とした声ではなく、優しい揺らぎの感じられる声だったけど確かに岩倉君。



山中さんから腕を解いて振り返ると、岩倉君が坂口さんを後ろから抱きしめている。坂口さんの目は、もう私たちを捉えていない。



「達規、離して」

「離さない、どうして気づかないの? くだらない意地は捨ててよ、プライドなんてどうでもいいだろ」

「よくないわ、私を誰だと思ってるの? 今更引けるわけないでしょう? 私が婚約破棄されたなんて恥ずかしくて言えないわ、父に何って話せばいいの? 離してよ」


穏やかな声で諭す岩倉君を、坂口さんは決して振り返ろうとしない。
まくし立てるように言葉を吐き出した彼女は、悲しそうに目を伏せた。離してと言いながらも岩倉君の腕にしがみついている。



「俺じゃダメなのか? ずっと一緒にいると言っただろ? 俺なら絶対に悲しませるようなことはしない、約束する」

「達規……」



坂口さんが力なく息を吐いて、岩倉君の腕に顔を埋める。震える彼女の体を抱き締めながら、岩倉君の口が小さく動いたのがわかった。
何を言ったのか、私たちには聴き取れなかったけれど。


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