水簾~刻の雨音~
揺れる心
「翠っ!もう調子はいいのか!?」

 翌日、岩戸に行くと琉斗が駆け寄ってきた。

「琉斗。ありがと。昨日蛍が来てくれたから。」

「蛍…?」

「うん。」

 おそらく今自分のうちで寝ているであろう蛍を思い、翠は微笑む。

「彼、ちょっと鳶に似てる。…とことん愚痴を聞いてくれて、それでいて人の痛いとこズケズケ突いてくるところ。」

 ふぅっと息をつき、翠は薬を調合しだした。

(…表情が…。)

 もちろん長年翠を見てきた琉斗が気づかないわけがない。

 翠は調合した薬を粉末にしようと石臼をごろごろとひく。

 口角が上がる。

 そしてゆっくりと口を開いた。

「この世界に生きる数多の人の中で

 私たちは出会った

 運命の糸に導かれるように

 だけど糸は糸だったんだ
 
 細くて弱い糸だった 」

 透き通った歌声は岩戸に響いていく。

 岩戸の隅々から人が集まってくる。

 翠は薬にお湯を入れた。

 クローフィたちが体を洗い、清めていく。

 翠は岩戸の中を歩き出した。

 クローフィたちが甘えるような声を上げた。

 薬湯を注ぎながら翠は口を開く。

「運命が渦巻いた水底で

 私たちは何を見るのだろう

 もう一度会いたいと願うことも

 もう許されないのだろう 」

 鈴のように声は岩戸に響く。

 誰もが息を呑み、その声に聴き入っていた。

 ハミングをしながら翠は鰐蛇に近づいた。

 鰐蛇が頭を垂れ、安心したようにうなる。

 翠は思いを吐き出すように歌を紡ぐ。

「それでも会いたいと願う私は

 きっと神を信じていないのでしょう

 あなたに会えるなら

 命なんていらない
 
 だからもう一度だけ 」

 翠はゆっくりと唇を動かした。

「もう一度だけ

 あの人に会わせて 

 もう一度

 あの人に会いたい 」

 ほぅっと息をつくと、後ろで拍手が起こる。

 驚いて翠は振り向く。

 そして恥ずかしそうに笑うと言った。

「…ありがとう。」

 …そこにいた誰もが驚いていた。

 いつぶりだろうか?

 翠があんな風にほほえんだのは?

 翠は軽やかに石段を下っていく。

「…すげぇ久しぶりだな。あの唄。」

「あぁ、去年の春以来だ。」

「…乗り越えたのかな?」

「さぁな。けど大丈夫だろ。もう心配ないさ。」

 男たちは微笑む。

 翠は鹿とうさぎのクローフィの檻に入り、調子を見ていた。

「…体調いいみたいね。あっ、こら!リト!威嚇しないの!」

 フゥウウッ!と威嚇しているリトをなだめ、鹿兎(かと)を撫でる。

 甘い麝香の香りがした。

「…あっ………!?」

 翠は小さく叫んだ。

「…これだ…。」





 蛍はドアがノックされる音で目を覚ました。

「…いるんだろ?なんだっけ…あぁ、蛍さん。」

(この声はあの幼なじみの…。)

 カチャリと扉を開けると、琉斗が入ってきた。

「きゅっ!」

 その後からリトも入ってくる。

 琉斗が振り向いてリトを見つめた。

「お前…なんでいるんだよ?」

 リトはシャッ!と歯を剥き、蛍の方へ走ってくる。

「…お前あいつのとこいなくていいのか?」

「………。」

(…あぁそう。無視ですか。)

 琉斗に対しては冷たくするが、こちらに対して優しいというわけではないらしい。

 ツンとしているリトに思わず半眼になる。

「…いるってわかってて来てなんだけどさ、なんでいるんだよ?ここはお前の家じゃない。」

 挑戦的なその視線に肩をすくめる。

「好きに使っていいって言われたから。」

 琉斗は馬鹿にしたように笑う。

「遠慮ってもんをしらねぇのか?」

「時には好意に甘えることも大切だ。それにこの村に、俺の家はないからな。」

「宿は用意したろ?」

「ここの方が居心地がいい。何かとつけて樹がうるさいからな。」

「反抗期じゃあるまいし…。」

「おまえバカなのか?あいつは俺の部下だ。」

 蛍はそう言って鼻で笑う。

 琉斗は目を見開いて蛍を見た。

「…は?」 

 蛍はバカにしたように笑う。

「どこの誰が俺があいつの部下だなんて言ったんだ?俺があいつの上司だ。」

「け…けどお前まだ俺らと同い年…。」

「俺にもいろいろあんだよ。言っとくけど、翠は最初っから気づいてると思うぞ?だから知識ひけらかすのはやめたほうがいいぜ。」

「しねーよ、そんなこと。」

 皮肉のたっぷりこもった応酬もほどほどに、琉斗が本題に入ってきた。

「…翠になに言ったんだ?」

 蛍は眉を寄せた。

「なんのことだよ?」

 琉斗はイライラと足を揺すった。
 
 そしてさも深刻そうに言った。

「翠が歌ったんだよ。」

「…だから何だよ…。」

 ものすごくどうでもいい答えに気抜けして力が抜ける。

「…一年近く歌ってなかったんだ。あの唄を。歌詞にさ、『あなたに会えるなら、命なんていらない』ってあるんだよ。」  

 つまりは、恋人に生きろと言われたのに歌える唄ではないということか。

 蛍はため息をついた。

「俺は何も言ってない。ただ聞いただけだ。あいつの話を。」

 琉斗が眉をひそめる。

「そんなの俺だってした。」

「俺は完全な他人だからな。悲しいのはみんな同じなんだからこの辺で終わりにしよう、とか、そういう気遣いもないだろ?」

 めんどくさそうに言った蛍に、琉斗が詰め寄る。

「あいつが自分から話すと思えない。」

 蛍は苦虫を噛み潰したような気分になった。

 案外、痛いとこだったのかもしれない。

「まぁ、きっかけは作った。けどそれだけだ。」

 突如、琉斗が何かを投げた、

 一瞬、沈黙が訪れた。

 そう、まばたきほどの一瞬、音が消えた。

 そして、次の瞬間聞こえたのは、リトが逃げ出す音と、琉斗の罵声。

「ふざけんな!!」

 はぁはぁ、と息を荒げる琉斗に思わず戸惑う。

 見れば、投げられたのは短刀。

 壁に当たってソファーに落ちていた。

「…殺す気かよ?やめとけ、俺は人間国宝だから。」
 
「…っ!思い上がるのも大概にしろ!あいつは俺のだっ!」

 蛍はソファーにどっかと座った。

「…あいつは誰のものでもないさ。あいつは誰のことも選んでない。そうだろ?」

「俺は特別だ。そう言われた。」

 刹那、蛍は口を開いていた。

「奇遇だな。俺もだよ。」

 ゆっくりと、琉斗の目が、大きく見開かれた。

「思い上がってんの、お前じゃねぇか?」





「…麝香…。」

 匂いが何なのかはわかった。

 獣特有のこの匂い。

 鰐蛇に乗るから、というのにしては少し匂いが濃すぎた。 

(…どういうこと?)

 あの人は人間だ。

『…ではないにおい、か。』
  
 記憶にフラッシュした言葉に冷や汗が流れた。

(…もし…もしあの聞こえなかった部分が『人間』だとしたら…?)

 翠はどこまでも聡明だった。

 混乱で鈍る思考を奮って考える。

(あの人は一体…?)

「きゅっ!きゅっ!」

「…リト?」

 鹿兎(かと)から手を離し、リトを見つめる。

「きゅっ!きゅぅ!!」

 くいくいと袖を引かれ、どこかへ連れて行こうとしているのだと察する。

 慌てて翠は立ち上がり、リトを追って走り出す。

「翠?帰るのか?」

 村の男、亮太に言われて慌てて返す。

「あっ…えと…はい!」

「おつかれ、気をつけな。」

「ありがとう!」

 返事をしながらリトを追う。

 岩戸を飛び出し、小道を走る。

「リト!どこ行くの!?リト!」

 翠は眉を寄せた。

 どうしたのだろう。

 何となくわかってきたのは、家に向かっているということ。

 家にはおそらく蛍が…。

(蛍…?蛍!?)

 我に返ってリトに叫ぶ。

「リト!蛍に何かあったの!?」

「きゅっ!」

 翠はものすごい勢いで地面を蹴った。
 
 いざという時獣から逃げるために発達した水の民の脚力は並大抵のものじゃない。

 と、家から琉斗が飛び出してきた。

「琉斗!?なんで!?」

 叫んで家に入ろうとすると、琉斗に腕を掴まれた。

「翠っ!」

 驚いて顔を向けると、琉斗は厳しい顔をして立っていた。

「な…何…?」

 あふれ出る気迫に圧されながら応えると、琉斗は口を開いた。

「…俺はお前にとって…『特別』だよな?」

「え?…う…うん。特別。」

 蛍が心配で意識が琉斗に向ききらないまま答える。

 琉斗はほっとしたように息をつき、腕を放した。

 瞬間、翠は走り出していた。

「蛍…っ!」

「翠っ!?」

 琉斗の声を無視して扉を開ける。

「蛍!何かあったの!?」

「ん?」

 キョトン、とした顔で見られ、少したじろぐ。

「なんで?」

「リ…リトが呼びに来たから…。それになんか琉斗もいたし…。」

 困惑したように言って眉を寄せた翠は、蛍を見つめる。

 蛍は何もいわない。

「…ねぇ、何か言って…。」

 翠は蛍ににじりよった。

「蛍…ねぇ…──っ!?」

 突然、手首を掴まれた。

 驚いて目を見開く。

「…蛍…?」

 ドクンッと心臓が波打った。

(………?な…に…?) 

 と、蛍が口を開いた。

「…お前は…少し鈍すぎる。…それでいて…。」 

「それに…?」

 蛍は少し言いよどんで、そして言った。

「…鋭すぎる。」
 
 意味が分からなくて困惑する。

「…なによそれ…。意味わかんない…。」

 蛍の瞳が翠の瞳の奥を見つめる。

「…琉斗は…お前が欲しいんだよ。」

「…バカなの?」

「バカはお前だ。アイツは『鳶』のことを好いちゃいなかった。」

「幼なじみだもん。」

「そういうことじゃねぇよ!あいつはずっと前から狙ってたんだ!もしかしたら『鳶』もあいつに…!!」

 パンッ…!

 乾いた音が響いた。

「…な……お前…!!」

 翠は震える唇を抑えながら言葉を絞った。

「…いくら蛍だって…そんなこと言ったら許さない!!」

 そして燃える紫水晶を蛍に向けた。

「取り消してっ!ううん!!考え直して!!」
 
 蛍は眉を寄せた。

「…変わらねぇよ。」 

 翠は目を見開いた。

「変わるわけ…ねぇだろ。」

 そして乱暴に翠の手首を放した。

 そして、扉から出て行った。

 一度も…振り向かずに。

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