石林(シーリン)三国志

定軍山の戦い

その後曹操は江陵に1年以上も立てこもり、
少しずつ力を回復して、北部に勢力を維持していた。

その間劉備は四川を制圧して、ここに三分の計は達せられた。
曹操は西の漢中で劉備と、東の合肥で孫権と、
何度も小競り合いの緊張が続いていた。

このはざまを縫って漢中に五斗米道という宗教国家建設集団が
力を拡大し、漢中を実効支配するようになってしまった。

劉備と孫権が領土分割でもめている時、
曹操は大軍を率いて漢中に入った。

漢中の五斗米道を制圧した曹操は夏候淵を残して
中原へ撤退した。孫権が揚州の合肥をまたまた攻撃してきたのだ。
この時を好機とばかり劉備は出陣する。

夏候淵は不落の要塞陽平関に立てこもり、諸将を渓谷沿いや
山上に配して迎え討つ。

対陣1年、劉備は成都の孔明を呼び寄せて作戦を
南の定軍山に変更する。

夏候淵もその作戦に気づき、要塞を出て二手に別れ、
一隊を率いて劉備の本陣へ突入しようとした。
夏候淵の得意の戦法だ。

だがしかしその手はベテランの老将黄忠に読まれていた。
伏兵黄忠の怒涛の攻撃によって夏候淵は討ち死。
軍勢は総崩れとなり関中は劉備のものとなった。

黄忠は60歳を過ぎた老将ではあったが、戦士としては
最強で、夏候淵を見事一騎打ちで倒している。
しかしこの場もちょっと死の床というイメージではないのう」

瞳「夢で見た場面とは程遠いわ」
老「三国志とはいうてもわずか40年ほどの間の出来事じゃ。
 もう少し時を下ってみよう。必ずやその場面に出くわすはずじゃ
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