楓の樹の下で
目が覚めた。
すっかり日も暮れてカーテンの向こう側が暗くなっていた。
そういえば、このカーテンが開いているのを見たことがない。
そっか、さっきあのおっさんが言っていたオレの事件で、ずっと閉めているのかと思った。
ふと足元に重みを感じる。
体を起こし、重みに視線を向ける。
そこでは、刑事のおっさんが寝息を立ててそこに居た。
「おっちゃん?」
起きる気配がない。
「ねぇおっちゃんってば!」
今度は体を揺すってみる。
うう…んと声を出しながら大きい体をムクッと起こす。
「おぉ起きたか…」
「うん。どうしているの?」
ふっとおっさんが笑う。
「そりゃボクのことが心配やったからにきまってるやろ。先生に言って、おらしてもらったんや。」
「でも、お仕事は?」
おっきなおっきな手がオレの頭をぐちゃぐちゃと撫でる。
「何言ってるんや。子供はそんな心配せんでいいんや。仕事はもう一人の女の刑事さんおったやろ、そのお姉ちゃんがやっとるからボクは心配せんでいいんや。わかったか?」
うん。と頷いた。
おっさんの手も温かいんだと思った。
わからないのに、男の手がオレにこんな風に触れたのが初めてだと感じた。
「おっちゃん…ボク、ひなたって名前かもしれない。」
「思い出したんか?ちょっと待っとき、先生呼んできたるから。」
「やだ、おっちゃんと話たいんだ。」
おっさんは、わかったと座りなおした。
「わかったけど、ちゃんと先生にも言わなアカンから、言うんやぞ?自分で言えるよな?」
大丈夫と伝える。
「よし、ほな話してみ。」
「話すっていうほど、思い出したわけじゃないんだ。寝ちゃう瞬間、女の人の声で『ひなた』って誰かを呼んだんだ。だから、それがボクのことかどうか、わからない。」
本当にわからない。口に『ひなた』と言ってみたけど、ピンとこない。
オレの名前じゃないのかもしれない。じゃ『ひなた』って何なんだろう。
「そっか、でもそれはきっとボクの名前やで。ボクが嫌やないんやったら『ひなた』って名前いいと、おっちゃんは思うで。あったかい太陽みたいで、ええやんか。」
笑顔でそう言う、おっさんを見てオレもいいなと思った。

病室の扉が開く。
「あっ起きたんですね。」
そう言ってオレが寝るまでいてくれた、あの看護師が病室に入ってきた。
「ほな、おっちゃん帰るわ。あんまり一人で仕事させてたら、あのお姉ちゃんに怒られてまうわ。」
青木さん!と、怒った顔の木田を想像した。少し面白かった。
「あっ笑った!ねっねっ今度はお姉さんに笑って!」
看護師が顔を近づける。とっさに顔を背ける。
「ふられましたな。」
おっさんがいたずらっぽく言う。
「ちぇっ!」
看護師が膨れてみせる。
二人は笑い合う。
その中にオレは入れない。
まただ。こんなあったかい空気になると決まって心に影が落ちて、あっという間に包んでいってしまうんだ。
なぜだか笑うといけない気持ちになるんだ。
記憶が戻ればオレも笑っていいんだろうか。
それとも、記憶が戻っても笑ってはいけないんだろうか。どちらかといえば、戻っても笑っていけないような気がして仕方がない。
どうしてこんなことを思うのか、今のオレにはわからない。

「ほな、帰るで。ちゃんと先生か看護師さんにでも言うんやからな。」

おっさんは約束やぞと、小指を立て、部屋を出て行った。
その会話で看護師が何と聞いてきたから、おっさんに言ったような事を繰り返した。

次の日昼御飯を食べて少しした時、先生と数人の大人たちがオレのところにやってきた。
数人の大人たちがそれぞれ自己紹介をしていくが、オレの頭の中には何も残らない。
覚えれる程の人数でもないし、きっとあまりオレの頭は賢くできていないと思った。

大人たちは、オレの名前が決まったことと、ここを退院してからのことを説明した。
家も親もなくして、記憶もないオレはもちろん引き取る人間などいるわけがなく、児童養護施設ってところに預けられるらしい。
一人の見るからに優しい男がはなしかけてきた。
「明後日から一緒に生活することになるから、よろしく。」
そう言って手を突き出した。
なんだ、と身構える。その手をどうしたらいいのか、わからない。
すると、その男はオレの手を取り自分の手と手のひら同士を合わせ握った。
「よろしくの握手。」
これが握手っていうことを知る。
この男も温かい手だと思う。
オレに触れる手はどれも温かいと思った。

いろんな説明をしたあと大人たちが帰っていく。
その説明のほとんどがオレには理解できなくて、わかったことは名前とこれから先住む場所が児童養護施設ってことだけだった。

次の日になり、また次の日になった朝。
握手をした男と何人かの大人たちがきた。
大人たちはオレをどうやって病院から施設へと行くのか相談していた。
マスコミってやつが朝から病院を囲んでいるのだと、一人の看護師が言った。
怖いだろうけど、大人が守ってくれるからと。
マスコミってやつも大人なんじゃないの…と思ったけど、言うのはやめた。
看護師さんがオレの服を着替えさせてくれた。
うすい黄色い服と、茶色のズボン。赤のチェックの上着。すごく暖かそうだと思った。

9時になり、じゃ行こうと握手をした男がオレの手を引く。
看護師が最後に上着を着せてくれた。
病室を出てエレベーターへと廊下を歩く。エレベーターが止まって扉が開く。
手を引かれ乗ろうとした時、あることを忘れてたことに気付く。
勢いよく手を振りほどき部屋に走って戻る。
呼ばれ慣れていない名前を呼ぶ声が後ろに聞こえる。
構わず部屋へと走る。少し息が切れる。
部屋へ戻ると、掃除のおじさんがオレの忘れ物を手にしている。もう片手にゴミ箱を持って…。
「待って!それオレのだから!!」
急いで駆け寄りおじさんの手から奪い取るように、掴む。

勢いがありすぎたのか、手の中でクシャとそれは音を立てた。

息を切らした大人たちが入り口で肩を揺らす。

「どうしたの?」
大人の一人がオレに聞く。
「これ、忘れてたから。」
大人たちに手に握られたソレを見せる。
後ろの方にいた一人の看護師があっと声をあげ、そして泣きだした。
そのまま大人たちの間を割ってオレの前に来て、膝をつく。
「忘れ物って…それ、持って行ってくれるの?」
「うん、だって看護師さんがボクにくれた初めての宝物だから。」
「そっかぁ。ありがとうぅ。本当に…あり…ありがとう…。」
そう言って微笑み看護師はオレを痛いぐらいに、きつく抱きしめた。


その肩越しに折り紙で作られた赤い花が少し形を崩して、オレの手の中で咲いていた。

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