清水坂下物語

打ち水

5年ぶりの再会。突然行方不明になっていた昔の女友達が、
生まれたばかりの赤ん坊を抱えて修の店の前にたたずんでいた。

朝8時、清水坂の中ほど、産寧坂を登りつめた唐辛子専門店
のむかい、土産品店の店頭だった。朝の淡い陽射しに打ち水
が心地よい。

『かた、かた、かた』

軽やかな下駄の音と、視線を感じてふと振り向くとまぎれもない、
5年前の吉川厚子が母親としてしっかりと赤ん坊を抱きかかえて、
修の顔をじっと凝視していた。通りの向こうである。一瞬、

「あっ!」
と小声で叫んだ。間違いない厚子だ。思わず視線をそらせたまま、
頭のなかににめまぐるしく過去がよみがえる。

彼女は通りの向こうから近づいてきた。客はまだいない。
淡い秋口の清水、坂の上であった。

修は腹を決めてうつむき加減の顔を上げた。彼女は、眼をじっと
見据えたまま口元だけがかすかに微笑んだ。

「おひさしぶり。やっぱり若林さんね」
「ああ、ほんとに久しぶり」

男の子か、まだ数ヶ月の赤ん坊だ。
眼がパッチリとしていて修をじっと見つめている。

「私の子よ。かわいいでしょ?」
「ああ」

厚子は赤ん坊を抱え上げ修によく見せようとする。
まだ首が据わっていない。

「ほら、あきら君。ひょっとしたら、あなたの
パパになっていた人かもよ」

あきら君はじっと修の瞳を見つめていたが、
母親の方に振り向きなおしてしっかりと抱きついた。
あまりの突然のことに修は全く言葉が出なかった。

「あら、泣かなくてよかったわねえ。よしよし」
もう母親としての自信が、身体全体からまばゆい
ばかりに輝き、香ってくる。

やっと何とか心が落着いた。何からどう話して
いいのかさっぱり分からない。

「この近くに住んでるの?」
突拍子のない言葉がついて出た。

「ええ、この坂の下、この子とふたりで。帰国してから
半年。大きなおなか抱えて大変だったわよ、空港まで」
「どっか行ってたんだ」

「ええ」
「・・・・・・」
「あれからヨーロッパに旅に出たの。一旦帰国して、
それからほぼ三年間スペインで生活してたわ」

「いろいろあったんだ?」
「そう、いろいろあったわ」

と、その時客が付いた。
「またくるわね」

赤ん坊はすっかり眠っていた。修は目で合図してうなずいた。
じっと見つめる眼差しの奥に、何か人懐かしさが浮んで消えた。
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