元教え子は現上司
 これはどういうことなんだろう。
 今日何度もおもった疑問がふたたび頭をもたげる。
 
 どうして私はこのワンルームの木造アパートで、二人分のコーヒーを淹れてるんだろう。
 
 一日であまりに色々なことがあったせいで、未だに頭がよく働かなかった。コーヒーサーバーにいつもより多い分量のコーヒーが溜まっているのを見つめながら、機械的にマグカップにコーヒーを注ぐ。

 一人用のローテーブルの周りには、今朝読んで広げたままの折込みチラシやデパートからのDMが散乱している。
 暁はそれらを避けた位置にあぐらをかいて座っていた。暁のすぐ後ろには、本や小物が入った棚が置かれている。その上に乗る化粧品やアクセサリーケースや時計。
 見慣れた光景のなかに暁がおさまっているのがひどく不自然で、そこだけ浮かび上がってるようだった。
 
「どうぞ」
 マグカップを暁に手渡すと、わずかに迷った末、暁のななめ前に少し距離を取って座った。正座を崩した座り方を選びながら、足先が暁の近くに伸びないように微妙な調整をする。

 暁は無言でコーヒーを口に運んだ。ズッという微かな音が、時計の針の音に混ざり合う。
 静かだった。混乱した頭が徐々に落ち着きを取り戻していく。

 どうして来てくれたんだろう。

 尋ねたいような、でも聞くのがこわいような気もちで暁を盗み見ていると、
「覚えてたんだ」
 コーヒーを飲みながら、唐突に暁が言った。言葉の意味がわからず見つめ返すと、マグカップをコトンとテーブルに置いた。
「ブラックなの」
 長いひとさし指がマグカップをトンと押す。形の良い爪を見ながら、直後にどっと溢れ出る思い出にゴクリと喉が上下した。

 はじめて暁が部屋に来たときのことだ。コーヒーの好みが分からず、子どもは甘いほうがいいだろうと思って勝手に砂糖とミルクを入れたら、甘すぎて飲めないよ、と言われて碧のコーヒーと交換することになった。
 
 甘いね。
 
 そのすぐ後にしたキスの後、暁がにやっと笑って囁いた。
 
 ばか。どうして今そんなこと思い出すのよ。
 自分を叱咤しても、浮かび上がった思い出に手が震えてしまう。

「コーヒーの好みとか、タコが嫌いなこととか」
 マグカップを見ながら、暁が呟く。
「覚えてるんだよな、あんた」
 なにかをたしかめるようなゆっくりとした口調に、碧はぎゅっとマグカップの取っ手を握った。これ以上話を進めたくなくて、声を上げる。
「さっきはありがとうございました」
 頭を下げると、耳にかけていた髪が音もなく落ちて顔を覆う。
「助かりました」
 顔を上げると、じっと睨むように暁が碧を見ていた。予想していた反応に、胸がぎゅっとなる。

「あいつなんなの」
 怒ったような声。ちがう、本当に怒ってる。感情をむき出しにした顔。そういう顔をすると、高校生のときみたいだった。

 暁があぐらをほどいて、長い足が碧の太腿の近くまで伸ばされる。碧はわずかに身じろぎして、コーヒーで喉を湿らせた。言葉が途切れないように、お腹に力をこめる。
「あの、担当を変えてほしいんですけど。できればユナさんに戻してもらえま」
 ダンッ。テーブルが叩かれた。暁のマグカップからコーヒーが零れて、茶色い染みがだらりとテーブルに広がる。

 ぎらりと光る目がこちらを射るように見ていた。
「言えよ。あの男があんたにとってなんのなか。上司命令だ」
 ごくりと喉が鳴る。
「……ずるいです」
 顎が震える。こわかった。小川とはちがう意味で。
 
 暁が身を起こして、ぐいっと身を寄せてくる。獣のような動きに身を引く間もなく、すっと顔が近づく。

「いいよ、ずるくても」

 暁の顔が苦しげに歪む。
 なんで泣きそうになってるの? 

 碧は顔を伏せた。詰めていた息をそっと吐く。目を閉じると、いくつもの記憶が細切れに蘇った。

 パラパラと視界を塞ぐようにおちていくいくつかの思い出。端切れのようなそれらを結び合わせることは楽しい作業ではなかった。できれば忘れたままにしてしまいたかったけど。

「……半年前まで、私は紅林学院にいました」
 碧はぽつぽつと話し始めた。あの夏のことを。
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