元教え子は現上司
 合宿の準備で小川をはじめとした本部スタッフの人たちは、たびたび校舎に出入りするようになった。碧は多忙をきわめる夏期講習の時期を迎え、教室から教室を飛び回っては一日が過ぎる毎日だった。

「小川さんたら、おもしろいですね~」
 ときおり、講師室の奥で小川を囲むようにして塾長や女性の講師や事務員たちが話しているのが視界の隅に映った。いつもどこでなにをしてるのかわからない塾長も、小川が来ると必ず姿を現しては側近のように立っている。

「社長の息子らしいよ」
 ふいに隣から声がした。同僚の男が、テストの採点をしながら視線を小川へと向けていた。ニヤッと笑って碧を見る。
「小川さん、幹部候補として色んな部署をグルグル回ってるみたいだぜ。で、今回は合宿担当で現場とも連携しろって話だよ。ま、研修みたいなもんだ」
 碧は小さく頷いた。急に合宿スタッフが補充されることになった理由がようやくわかった。塾長の大げさな笑い声の理由も。

 まぁなんでもいい。誰のどんな考えにも興味はなかった。

「先生、ここ教えてください」
 声に振り返ると、さっき終えたばかりの講習の生徒だった。彼女は高三の受験生だ。もともとほっそりした子だけど、最近特に痩せた気がする。碧はハイハイ、と顔を上げつつ文机に入れているチョコレートを取り出す。

「ここがね、助動詞と助詞の使い分けがわからなくて」
 険しい顔でテキストを握りしめるその子に向かって、碧はチョコレートの包み紙を差し出した。
「ほら、とりあえずこれ食べて」
 最近の子は総じて痩せすぎだと思いながら、無理やりにでも糖分を取らせる。
「えぇ~、いいよダイエット中」
「だーめ。それ以上痩せると頭悪くなるよ」
「なにそれー」
 アハハ、と笑う彼女にほっとして、碧も笑った。なにげなく視線を変えると、塾長たちと話していたはずの小川がじっとこちらを見ていた。

 え? とおもっている間にもう小川は話の輪にもどり、ふたたび笑顔を見せていた。

 みまちがいかな。

 そうおもって、ふたたび生徒に向き直った。
「ここはね――」
< 39 / 86 >

この作品をシェア

pagetop