元教え子は現上司
 それから小川は、なにかにつけて碧に話しかけてくるようになった。
 どうして自分に、と不可解な思いはあったものの、塾長たちに囲まれる日々にいいかげん嫌気がさしたんだろうと判断した。連日徹夜続きで、本部スタッフの行動についていちいち考える余裕なんてなかった。
 
 合宿最終日。最後の夜は合宿らしくキャンプファイヤーを行うのが例年の慣習だった。このときのために勉強の合間を縫って組み立てられたキャンプファイヤーも、今年は小川たち男手が多いから設営が楽だった。合宿が終わった安堵感ではしゃぐ生徒たちを見ていると、自然と笑みが浮かぶ。一時の安息とはいえ、今はおもいきり楽しんでほしい。
 そして思考はまたぐるりと回る。

 もしあのまま学校にいたら、こんなふうに彼を引率して学校のイベントに行くこともあったかもしれない。

 考えてもしょうがないことを考えるのは、最近ではもはや趣味なんじゃないかと自分を疑う。未来が見えないから、過去のあれこれをほじくり返しては夢想するのだ。なんて生産性のない行為なんだろう。

 それでも、彼を想っているとき、いつも心の中でほんのり火が灯る。それは目の前で爆ぜるキャンプファイヤーのように大きな火ではなく、黙って揺らめくろうそく程度の灯りなのだけれど、今の碧を支えているぬくもりだった。

 元気かな。

 合宿が終わり、多少気が緩んでいるのかもしれない。肩の力を抜き、ふぅ、とため息とこぼしたとき、

「お疲れさまです」

 声に振り返ると、小川が隣に立っていた。碧はあわてて笑顔を作った。
「お疲れさまでした。慣れないことが多かったとおもいますが」
 小川はそうですね、と苦笑した後、キャンプファイヤーの明りで赤くなった顔をこちらに向けた。
「でもとても楽しい夏でした。本社にいただけではわからないことも沢山ありましたし、なによりあなたに出会えた」
 予想してない言葉に碧が目を丸くすると、小川は続けて言った。 

「久松さん、僕とお付き合いをしてもらえませんか」

「――――え」
 お付き合い。言葉が頭の中を回った。驚きで思考が次にいかない。遠くに生徒たちの笑い声が聞こえる。

 小川が表情を和らげた。キャンプファイヤーの灯りが、めがねに反射して白く光る。
「いきなりこんなことを言ってすみません。だけど、あなたに惹かれてるんです。生徒さんたちには慕われてるのに、なぜかあなたは、時々とてもさみしそうな顔をする。今もそうだ」
「――――」
 なんと言っていいかわからなかった。どうしてこんな、ついこの間会ったばかりのひとにそんなことがわかるんだろう。
 小川が近づく気配がして、急いで首を振る。
「ごめんなさい。お付き合いはできません」
「僕には興味がないんですよね」
 顔を上げると、小川がじっと碧を見ていた。
「バス停でのお話、聞こえました」
「それなら――」
 碧がなにか言うより早く、
「でも、僕たちはきっとうまくいく。運命の相手だから」
 運命って。
 唐突な言葉は真剣な表情に反して滑稽に響いて、それでも笑うことはできなかった。

「ごめんなさい」
 顔を上げて、はっきりと告げる。

 小川のことは嫌いではない。優しそうなひとだとはおもう。ずっと一緒にいたら、好きになれるかもしれない。
 それでも、頷くことはできなかった。小川のせいじゃない、これは私自身の問題だ、と思う。

 だれかを好きになるのが恐かった。もう二度とだれも傷つけたくない。そして、傷つくのも嫌だった。

「わかりました」
 わずかな沈黙の後、小川は微笑んだ。
「それではせめて、友人としてお付き合いしてもらえませんか? 僕の周りにいる人たちは、僕が人を刺したと言っても笑って拍手しそうな人ばかりでね、正直しんどいんですよ」
 少しくだけたようにそう言って、小川は苦笑した。碧はホッとして頷いた。
「私でよければ」
 ありがとうございます、と言おうかどうしようか一瞬逡巡して、結局なにも言わずにおいた。
 
 ふっと視線を火の粉の爆ぜるキャンプファイヤーにもどす。夏が終わる、とおもった。

 隣に立つ男をそっと盗み見る。目が合うといつものように微笑んで、目が糸のように細まる。
 
 なぜかあなたは、時々とてもさみしそうな顔をする。
 
 そんなに顔に出てるんだろうか。そっと頬に手をあて、唇をかみしめた。
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