元教え子は現上司
 小川とは一度だけ話した。
「結婚してたんですね」
 電話口で、小川は数秒の沈黙の後ふいに泣き叫んだ。その様子はあの女性とよく似ていて、なんだ似たもの夫婦なんじゃん。そう思って、疲れ切った碧には苦笑のひとつも出てこなかった。

 結婚していたなんて知らなかった。みんなは知ってたんだろうか。知っていてあんな風に近づいてたんだろうか。
 疑問は浮かびかけたけど、すぐに打ち消した。もうどうでもいい、そんなこと。

「二度とかけてこないでください」
「いやだ」
 予想してない答えに、眉間にしわが寄る。
「僕らは親同士が決めた婚約者でね、あいつが言い出さない限り僕からは別れられない。でも僕は、碧、君とは一生一緒にいたいんだ」
「……なに言ってるんですか」
 ぼんやりとしていた思考が明瞭になってくる。

 友だちでいい、そう言ったのは小川の方だった。それなのに。

 一生一緒にいる?

 このひとはなにを言ってるんだろう。

「言っただろう、僕たちは運命の相手だって」
 今まで泣いていた人とは思えない、奇妙に朗々とした声が電話口から聞こえる。携帯を握りしめる手がじわりと汗をかいた。
 同時に、自分はなにか重大なものを見落としていたんじゃないか。そんな気もちがせり上がってくる。

「君のさみしさを、僕なら理解できる。碧、よくわかるんだ。僕もずっと一人だった。耐えられなかったよ、肩書きしか見ない連中の中で生きているのは」
「――小川さん」
「だいじょうぶ。僕らは離れないからね。心配しなくていいよ」
 小さい子に言って聞かせるような声。

 このひと、おかしい――。

 自分がどんな男と接していたのか、ようやく理解して頭を殴られたような気がした。
 携帯を耳から引き離して、そのまま投げ捨てる。部屋の隅に落ちたそれを拾わずに電源を切った。心臓が痙攣するように小刻みに騒ぐ。
 画面が黒くなった携帯を見下ろしていると、涙が滲んできた。膝をついて携帯を包むように丸まって、そのまま声を殺して泣いた。
 
 君は教育者としてふさわしくない。

 なんでいつも私は失敗するんだろう。



 毎月来るクレジットカードの請求や電気代の明細書が届かないことに気がついたのは、数日後のことだった。不審におもってエントランスまで降りていったとき、碧の部屋の郵便受けを覗き込む横顔を見てしまった。
 足元には、散乱する煙草の吸殻。小川だった。

 それからすぐにアパートを出た。人生で二度目の引越しは、ある意味一度目よりも必死だった。立地条件もセキュリティも無視して、空いてる部屋に飛び込んだ。文字通り、逃げるように。
 それが半年前の碧だった。
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