元教え子は現上司
 袴木がこの資料室で後輩教師と教え子の密会を見てしまってから半年が過ぎていた。あの時若い女教師の勢いに負ける形で約束をしてしまったけれど、今でもそれが正しかったのかわからないでいた。

 彼女は約束を守ったんだろう。そうでなければこの少年が、ここまで昏い目をして日々を過ごしているわけがない。
 愛していたんだろうと思う。そしてその思いはまだ、自分の三分の一ほどしか生きてないこの少年の心の中で燻っている。

 なんとも言えない思いがこみ上げてきて、それを沈めるようにわずかに咳払いをした。そんなしぐさも目の前の少年の気に触るようで、鋭い目がこちらを睨んできた。

「なんだよ話って」
 唸り声を上げる野生動物のようだと思った。半年前、泣きながらこの場所で土下座をしてきたときの暁と全くちがっていて、袴木は小さく嘆息した。
 暁は苛立ったように足を組むと、チッと舌打ちをした。

 袴木はまだ迷っていた。これから話そうとすることを、この少年はどんなふうに受け止めるだろうか。これ以上傷つけるくらいなら、言わないほうがいいのではないか。

 ひとの心は実に多様だ。この仕事をしているとつくづくそう思う。誰かが優しさでとった行動が、必ずしも受け入れられるとは限らない。特に十代の若者の心は、彼らの乱暴な口調や行動と裏腹に、なんと傷つきやすく脆いことだろう。こういう場合は何が一番いい方法なのか。三十年以上教師をやっていて、まだわからない。

 暁がふいに、袴木の背後にある本棚に視線を移した。瞬間、眼差しの険しさが取れ、その様子に袴木はわずかに目を見張った。

 傷ついたような、泣くのを我慢しているような表情。そんな顔で暁は本棚を見ていた。

 ――そうか。

 袴木の後ろにあるのは、国語系教科の棚だ。自分もよく使うから知っている。

 この少年は怒ってるのではない。傷ついてるのだ。そのことがよくわかった。

 袴木はもう一度咳払いをして、姿勢を正した。そのしぐさに再び暁が警戒するように袴木を睨む。

「久松先生のことだけど」

 その名前が出たとき、暁の細い肩が上下にビクリと揺れた。見開かれた目が、直後美しい刃のように尖る。
「その名前は聞きたくない」
「まぁ、いいから聞きなさい」
 立ち上がろうとする暁を諌めて、袴木は言った。
「まず、君に謝らないといけない。僕はね、君に嘘をついた」
 暁が睨むようにこちらを見上げる。袴木は自分の言葉に頷きながら口を開いた。

「僕は久松先生の婚約者なんて知らない。会ったこともない。なぜならそんな人は存在しないんだから」

 廊下の向こうを、生徒たちがバタバタと通り過ぎる足音がした。笑い声や嬌声が、静まり返った資料室に流れてくる。

「なに、言ってんだよ」 
 暁はそれだけ言った。瞳は警戒の色を浮かべたままだが、それでも彼にとって予想外の言葉だったようだ。わずかに身じろぎして、椅子が大きく鳴った。

 袴木はうんうん、と頷きながら、
「久松先生と僕との約束だ。先生が責任を取って辞める。だからその代わり、このことは誰にも言わないでほしいと言われたよ。なぜだと思う」
 暁はその言葉には答えず、険しい顔のまま袴木を見ている。喉がごくんと上下している。袴木はゆっくりと言った。

「君を守ろうとしていたんだよ、彼女は。僕が君たちの関係を知ってしまった以上、なにかの形で始末をつけるしかない。その時に君に影響がないよう、自分がいなくなることで許してほしいと言ったんだ」

 暁は固まってしまったように、呆然とした表情で袴木を見ている。
 
 キ――ンコ――ンカ――ンコ――ン。

 チャイムが、二人の間にある張りつめた沈黙を埋めていく。やがて小さな声で暁が言った。

「信じない」

 昏い目が袴木を見ている。
「俺はもう、なにも信じられない。先生はいなくなった。電話もつながらないし、家も引っ越した。もう二度と会えない」
 そう言うと、真っ黒な目にふいに涙が盛り上がった。俯いてシャツの袖で顔を乱暴に拭う姿を見ながら、袴木は唇をかみしめた。最後にあれだけ言われても尚、この少年が年上の恋人に電話をかけ、家まで行ったという事実に胸が痛んだ。

「私の持っているものであの子が守れるなら、悔いはありません。そう言っていたよ」
 袴木はそう言って立ち上がると、扉の前まで来た。半年前を思い出すように床を見下ろして、
「この場所で、僕に土下座をしてね。まったく君たちは、よく似てる。そう思わないか」
 振り返ると、暁は赤い目でじっとこちらを見ていた。震える声が尋ねる。

「本当、なのか?」
 黙って頷く。

 ガタ――ンッ。
 
 暁が立ち上がった拍子に椅子が後ろに倒れた。暁は袴木の両腕を掴んで叫んだ。
「なんで引き止めてくれなかったんだよ! どうしてっ」
 黙って行かせちまったんだよ――。
 
 暁は絞り出すようにそう言って、袴木の腕をつかんだままずるずると膝を折った。肩がぶるぶると震え、暁の両目からは涙がぼたぼたと落ちていった。
「なんだよそれ。勝手に決めてんなよ。俺……そんなの全然っ」
 泣き崩れる生徒を見下ろして、袴木は言った。
「言ったろう。彼女は教師だったんだ。なにかの形で責任は取らないといけない」

 暁はブンブンと頭を振る。顔を上げると袴木を睨んで、
「一人で全部決めて……そんなのってないだろ。俺だって、力になれたかもしれないじゃないか」
「じゃあ君になにができる」
 袴木は大きな声を出した。教壇に立って教える時に使う、腹から出す声で、
「親が払った金を無駄にして退学するのか? 色んな教師に話を聞かれて、批判的な目で見られて、噂の的になりながら三年間通い続けるのか? どちらも嫌だろう」
 暁は涙を浮かべた目を見開いて袴木を見上げる。

「そういうリスクから、久松先生は君を守ったんだ。温情に訴えて、僕に見なかったふりを要求することもできたはずだ。でもそうしなかった。きちんと取引をした。責任を取るから、秘密にしてほしいと。辞めるといっても、黙って消えたわけじゃない。きちんと辞表を出して辞めていったよ」

 なんて責任感のない行動ですか。これだからこの間まで学生だった女の子は困るんです。

 お局格の女性教師に、職員室中に聞こえる声で怒鳴られながら、毅然と立っていた。そんな姿を見てしまっては、袴木も約束を破るわけにはいかないと思ったのだ。

 暁の両目から、ふたたび涙がこぼれ落ちていく。

「……くやしい」

 涙を拭うこともせず、暁は小さく言った。
「自分が子どもなのが悔しい。どうして俺はまだ高校生なんだろう。どうして先生は先生なんだろう」
 悔しいよ、再びそう言って目元をゴシゴシと擦った。

 袴木は膝を曲げ、暁と目線を合わせた。

「悔しいと思うなら、一生懸命勉強しなさい。よく勉強して、早く偉くなるんだ」

 途方に暮れたような顔で袴木を見る暁に、言葉を重ねる。
「よく学んで伸びていく奴は、人より早く大人になれる。いつかもう一度出会いたいなら、今を無駄にしてはいけない。久松先生の残していった、この場所を大切にしなさい」
 そのためにまずは、きちんと授業に出なさい。そう言って笑いかけた。

 暁がひとつまばたきをすると、残っていた最後の涙が頬を辿っていった。
 その涙が落ちたとき、暁はゆっくりと頷いた。

「わかりました」
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