元教え子は現上司
 数日後。
 碧は携帯を片手に部屋のベッドに横になっていた。目の前のディスプレイには「母」の文字。
 おそるおそる文字をタップすると、画面が接続中に切り替わった。
「もしもし」
 通話口から、懐かしい声が聞こえた。ふっと頬が緩む。
「母さん?」
「久しぶりじゃんね。どうしたん?」
 故郷のなまりを聞きながら、ごろんと横向きに丸まる。
「うん、あのねぇ」
 私そっち帰ろうと思うじゃん。言いたいのに、言葉が喉の奥で止まる。
「みんな元気にしとる?」
 沈黙を埋めるためにそう尋ねると、母は笑った。
「父さんも母さんも元気よぉ。東京は暑いだらぁ。先生も大変じゃんねぇ」
 母には予備校の講師を辞めたことを言ってない。どしてん? と理由を聞かれても、答えたくないから。というか、答えられないから。
 なんか、そんなことばっかりだな、と思う。

「ど暑いよぉ毎日。そっち帰りたいだもん」
 冗談ぽく言ってみると、母もそうだらぁ、と笑う。
「夏休みあるんだら? 帰ってこりんよ。お盆にはショウちゃんとこの子も遊びに来る言うてるし」
 いや毎日夏休みなんだよ、とは言えない。当たり障りのない会話をしてると、壁の隅に掛けたハンガーに吊るされたスーツが目に留まった。真っ黒のパンツスーツ。この間の面接に着ていたやつ。
 きゅ、と唇を噛みしめる。自分はなにをしてるんだろう、と思った。

「母さん? ごめんね、私これからテストの採点せにゃあかんから、もう切るでね」
「そうなん? あんまり無理せんでね。たまには休みんよ」
 うん、と小声で答えて携帯を切った。 
 携帯を握ったままぱたん、とベッドに仰向けになる。母の笑い声が耳の奥に残っていた。

 八年前、突然教師を辞めた碧を、両親は当然心配した。学校でなにかあったの、とまるで不登校の子どもに聞くように何度も尋ねられた。予備校の講師になってからも、帰省するたびにしばらくはなにか言いたそうな顔でこっちを見ていた。
 心配をかけたのだ。わかっている。

 目を閉じる。きょう何日だっけ、と考えて、家賃の引き落としまでの日数を計算する。
 明らかことはひとつ。ダラダラしていても時間は過ぎていくばかりだということだ。

 起き上がって、就職サイトを見ようとしたとき。
 手に持っている携帯が振動した。慌てて表示名を見る。知らない番号だった。
 もしかして、どこかの人事担当かもしれない。最近は知らない番号に出ることもためらわなくなっていた。
「もしもしっ」
「……碧さん」
 びくん、と動きが止まった。
 
 この、声。

「……お、がわさん?」

 ガサリ、とノイズが聞こえて、無言で頷いている小川の顔が想像できた。
 ふーっと息を吐く。息が震える。手が急速に熱を失う。

 落ち着け。落ち着け、私。

「番号変えたんですね」
 おもったより普通の声が出たことに安心する。
「そう。前の番号だと、繋がらなかったから」
 着信拒否にしていたからだ。わかってるでしょ。怒鳴り声が出そうで、喉元で栓をされたように止まる。

 記憶がどろりと蓋を開けてなだれ込んでくる。無理やり抱きしめた小動物のように、心臓が体の中で暴れ騒ぐ。

「碧さん、会いたい。話したいんだ」
 小川の懇願するような口調が耳に潜りこむ。携帯を握ってないほうの手で顔を覆う。
「やめてください」
 瞼がビリビリと痺れる。この間いきなり出てきた涙は、今回は出そうで出ない。泣いてる場合じゃない、と体が警告するかのように。
「お願いだよ」
「…………」
 ふっと顔を上げた。先週面接で着ていたスーツがハンガーに掛けられている。その横にはさっき洗った洗濯物たちが並んでいる。水道代がかかるから、洗濯はまとめてするようにしている。  

 なんか、疲れたな。

 いとしい、さみしい、うれしい。
 そういうものを体で感じたのは、いつが最後だったんだろう。

「切りますね」
 予告して、なにか言われる前に携帯を離すと画面をタップした。通話時間、二十八秒。
「はあっ」
 大声を上げて、ベッドに倒れこんだ。
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