おじさまと恋におちる31の方法

「やあー、こんばんはお嬢さん。ご機嫌はいかがかな?」



だが、静寂かつ穏やかな毎日は、この男の出現であっけなく粉となって消えてしまった。

紗江は店先の黒板を書き直しながら、本来来る曜日ではないはずの『教授』の姿を見るなり口が引きつった。


昨日と違って雨上がりの今日は、憎らしいほど清々しい夕暮れ。

ただいま、午後5時30分。

いつもなら来るはずのない曜日、来るはずのない時間。

まるで紗江が店外へ出てくるタイミングを物影から見ていたんじゃないかというほど、某ゲームのスライムよろしくジャストな出現を果たした『教授』は、やっぱり昨日と似たようなくたびれたYシャツにベスト、薄っぺらいサンダルを履いていた。


紗江は黒板の方に再び向きあい、明日のメニューをチョークで書きつづった。



「ごきげんよう、ノノムラさん」

「『飯村』ね」

「申し訳ありません、どうも興味がない事を覚えるのは苦手で」


彼女のつっけんどんな態度にちっともめげず、30代の男はニコニコと笑っているだけだ。
ちっともこたえてないらしい。

「君も大分言うねえ。
で、どう?考えてくれたかな?昨日の話」

マスターの話だと、立会いがあれば店の中でお話を聞いても良いって言っていたけど。



なんだかんだ言って、この飄々とした男はマスターの失言をしっかり憶えていたらしい。

黒い板に「昔ながらのサンドウィッチ」と勢いよく書き綴りながら、けれど紗江は少しも動じていない風を装って言葉を返す。


「ああ、小説参考の為の取材でしたね。ええ、それではどうぞ」

「……」

「あれ?取材されないんですか?」


つっけんどんな返しに、飯村は虚をつかれた顔をした。


「え、何。今黒板書いてるお嬢さんに、僕が今この場で取材しろって言うの?」

「ですから、それくらい私には取材の価値はありませんってことです。
私より年上の綺麗な女性が店内にいらっしゃるので、その方に聞いた方が随分と貴方の為になると思いますよ」

「だから僕は君がいいって言ったじゃないの」

「その理由が今ひとつ私には理解できかねますね」


カッ、カッ、カッ。

夕焼け美しい空に、やたら大きく響くチョークの音。

無言の彼に「さてようやく諦めてくれたかな」と期待してチラリ視線を上げれば、飯村はニヤニヤと口の端を歪めていた。


「…サンドウィッチかあ。いいねえ、久々に食べたくなったなあ」

「へっ」

「うん、お邪魔していこうかな。
まだ開いてる?開いてるよね、ここ午後6時閉店でしょ?」

「えっ、ちょっ…!」

止める間もなく
飯村は、閉店ギリギリの『エスポワール』の扉を開けてしまった。

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