結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 いいのかな。

 時間が経つと、一人になると、そんなことを何度もおもった。
 未成年の彼氏。だれにも言えない、ううん、ミドリにだけは言った。驚いて三秒固まった後、なぜか爆笑された。笑い飛ばされて救われた気になって、でも次の瞬間また心が沈んでいく。

 底のない水の中を泳いでるような心もとなさ。どちらが陸かもわからない。もしかしたらひたすら底のほうに潜っているだけなのかもしれない。  
 それでも泳ぎやめることはできないとおもった。苦しさと愛しさはいつも対になって、どちらも夏帆を惑わせた。

「夏帆に言わなきゃいけないことがあるんだ」
 悠樹が三年生になる直前の春休みのことだった。悠樹の部屋で、さっきまで食べていた昼食の食器を洗っていた夏帆は、くんと背骨を伸ばした。地震を察知する動物のように、来た、とおもった。

 いつの間にか正座していた悠樹は、両足の上に置いた握りこぶしを見つめて言った。
「スクールのコーチが、大阪でスタジオ開くんだって」
 夏帆も悠樹の前に座った。悠樹は言葉を選ぶように黙っている。悠樹の手の甲から腕に向かって流れている血管の筋を目で追う。拳に力が入ってる。
「卒業したら、俺もそこを手伝いたいとおもってる」
 いつもの断定口調じゃなかった。夏帆は悠樹の目の中にある揺らぎを見た。それは行くことへの迷いじゃない。夏帆に気持ちを告げることへのためらいだった。

 こういう日が来ることはわかっていた。いつもいつも、影みたいにぴったりとすぐ後ろにあった予感。それが今日だっただけだ。
 必死にそう言い聞かせて、何百回としたシミュレーションの通りに笑ってみせた。
「がんばってね。応援してる」
 遠距離でも大丈夫だよ、離れてても心はひとつだよ。そんなことは言わなかった。言っても意味がないことはわかっていた。たぶん、悠樹にも。
 悠樹は今、岐路に立ってる。夢か恋か。どちらも取ることはできない。なんでだろう、お互いの考えてることがわからなくて小さなケンカもたくさんしたのに、こんなにもくっきりとそのことだけはたしかにわかった。

 キーケースから部屋の合鍵を取り出した夏帆を見たとき、悠樹は両膝の間に顔を埋めて泣いていた。男の子が泣いちゃだめよ、とは言えなかった。夏帆も泣いていたから。
 
 家に帰ったあと一度だけ電話がきた。けどそれは、取るか取らないか考えるよりも前にすぐに切れてしまった。鳴らしたことを後悔したように。
 
 土曜日だった。今でも覚えてる。翌日の日曜日にはミドリが家に来てくれた。引きこもって返事もしない娘に困惑していた母は、助かったとばかりにミドリを部屋に招きいれた。それでもなにを話したかは覚えてない。同じことを延々言っていた気がする。これでよかったんだよ、とか、だって若いし、とか、私も結婚だってしたいし、とか。

 翌日。会社を休みたかったけど、家にいても泣いてばかりで家族に心配されるし、無理やり出社した。
 記憶がふたたび復活するのは、昼休みになってからだ。
 久しぶりに公園に行った。行きたかったわけじゃない。だけどなにも食べたくないし、泣きすぎて瞼が腫れあがってる顔で誰かに会うのも嫌だった。一人になれるところは、結局ここくらいしかなかった。

 もう蝉は鳴いてない。代わりに、ベンチに座ると桜の花びらが降ってきた。顔を上げると、薄紅色の桜が水色の空をふちどるように咲いていた。枝からこぼれ落ちそうな、満開の花たち。
 あの日たくさんの蝉に住処を提供していたこの木は、桜の木だったんだ。
 ふぅと息を吐く。

 忘れていかないと、いろんなことを。
 でもしばらくは無理だろうな。なにを見ても、どこにいても悠樹につなげて考えてしまう。

 目を閉じて、自販機で買ったミネラルウォーターのペットボトルを瞼にあてる。冷たさが心地良かった。

 夏帆。

 絶え間なく考えてるせいで、二年の間に少し低くなった声を頭の中で再現できてしまう。
「やだなー、未練がまし――」
「夏帆」
 目を開ける。桜の花びらがひらひらと落ちていく。
 悠樹が立っていた。

 切れ長の目の下が、黒くくぼんでいる。剃ってないまばらなヒゲ。この二日間で山ごもりでもしてたんだろうか、というようなやつれた様子に息を飲んだ。
 驚きのあまり声が出ない夏帆の前で、悠樹は地面に膝を着いて、そのまま座り込んだ。
 ガバッ。
 両手と頭を地面につける。混乱した頭で、一瞬、ダンスの振り付けかとおもった。でもそうじゃない。開いた口が、ゆうき、と呼びかけるのを遮って、

「俺と結婚してください」
 その姿勢のまま悠樹が言った。

 昼過ぎの公園。小さな子どもを散歩させているベビーカーを持った母や、向かいのベンチで新聞紙を読んでいたおじいさんが驚いてこちらを見ている。視界を遮るように、花びらが目の前で一枚落ちた。

「…………え」
 ――なに、いってるの……?

 呆然と悠樹を見返す。聞きまちがいだとおもった。そもそもこれが、白昼夢なんじゃないか。動くこともできずに悠樹を見る。手の力が抜けて、ペットボトルが滑り落ちた。ぼとんと重い音が鳴る。

 ごめん。

 悠樹が膝をついたまま、くぐもった声で言った。長い前髪がすだれのように落ちて、表情が見えない。落ちたペットボトルの中の水が日差しを受けて強く光る。

 悠樹がゆっくり顔を上げた。真っ赤に充血している目からは涙がこぼれていた。
「ごめん夏帆」
 幾筋も流れる涙が悠樹の顔をぐちゃぐちゃにしている。
「俺、だめだ。夏帆と一緒にいたい。何度も考えたんだけど、諦めたくない。夢も、夏帆も」
 悠樹は頬に流れる涙を、砂がついた掌で乱暴に拭った。濡れて光る目が、夏帆をまっすぐに見る。
「夢なんだ。夏帆も、俺の夢なんだよ」
 涙がぼたぼたと地面に落ちる。かすれた悠樹の声。
「ガキでごめん。こんな、頼りなくてごめん。だけど」
 夏帆が好きなんだよ。

 はじめて見た、悠樹のこんな姿。がむしゃらでめちゃくちゃだ。スマートでもかっこよくもない。
 ほんと、子どもみたいだ。

 立ち上がったことに自分でも気づかないまま、座り込む悠樹を抱きしめていた。悠樹の両腕が背中に回って、強く抱きしめられる。二人がはじまったあの夜のように。
 貪るようなキスはお互いの涙で濡れていて、塩辛い味がした。やがて腕の力がゆるみ、柔らかな沈黙が二人の間を漂う。

「ありがとう」

 夏帆は小さく囁いた。囁きとともに心に湧き上がってくるその想いは、輝いて夏帆を後押しした。

「私、悠樹の奥さんになるよ」
 言いながら笑みがこぼれる。きっとこれから大変だ。お母さんもお父さんもびっくりする。
 だけど、もう決めてしまった。なりたい、じゃなくて、なる。一度くらい、私も悠樹のように迷いなく思いたい。

 一生に一度でいい。この気もちを、叶えたい。
 そう言うと、悠樹は大きく笑って夏帆を再び抱きしめた。
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